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一体何を言っているんだろう。歩向の頭は一瞬真っ白になった。聞き違いかとも思ったが、サリナは当たり前のことのように続けた。
「稀人に家族なんているわけないじゃない。ヤマナシっていったかしら? そんな場所、聞いたこともないわ。
いい? よく聞きなさい、コバヤシ=アユム。普通の人に家名はないわ。なのにあなたはさも当たり前のようにその名を告げる。どこから来たかもわからず、ある日ふと独り訪れ、私たちが知らない世界のことを告げる。私たちはそんなあなたたちのことを、稀人と呼ぶわ」
そんな馬鹿なことがあるものか。あまりのことに歩向は目を見開いた。ここが違う世界だなんて、もうお母さんやお父さん、熊五郎に会えないなんて。そんなことが信じられるわけがない。からかっているんじゃないか。歩向は上目遣いにサリナを見るが、「じゃなければあの森で独り、生きていられるわけがないじゃない」と当たり前のことをつまらないように語るその顔に、嘘偽りは読み取れなかった。
サリナは本当のことを言っているのかもしれない。しかしその事実は歩向には重すぎた。だからサリナが、バケモノのように見えたのだった。
「嘘だ嘘だ、嘘ばっかり」
歩向は叫ぶようにそう言うと、サリナが何か言おうとするのを振り切って駆けだした。途中ぱたぱたと忙しなく行き来する人とすれ違い声を掛けられたが、歩向は耳を手で強く塞ぎ、逃げるようにすり抜けていく。ここはバケモノ屋敷だ。こんなことがある筈がない。
救いを求めるようにして門をくぐり抜けた。
そこには、見覚えのない景色が広がっていた。一見すると祖母が住む田園地帯のように見える。しかし見たこともないような粗末な家々が散逸し、ちらほらと見える人の顔も彫りが深く、様々な髪色をしているところが大きな違和感として目に刺さった。さらにゆっくりと後ろを振り返り見れば、サリナの家の裏には、鬱蒼とした森が見えたのだった。
思わず大きな叫び声をあげて、歩向は走り出した。どこに行くつもりがあったわけでもない。ただただこの場にいたくなかったのだ。
どれだけ走ったのだろう。息は切れ、脇腹や足がひどく痛む。脇腹を押さえながら荒れた息を整えながら足元を見れば、靴も履いていない足からは血が出ていた。
いつのまにか北の森のほとりまで来ていたようだ。人気はない。歩向はへたへたとその場に座り込んでしまった。
そのままどれほどの時が経っただろう。頭の中には先程のサリナの言葉がふつふつと浮かび、その度にそんなわけがないと必死になって自分を励ました。
すぐにお母さんやお父さんが、いやその前に熊五郎が迎えに来てくれるはずだ。歩向は何度も言い聞かせるのだった。
熊五郎は中村家で飼っている犬だ。下校途中に勝手についてきた母犬が産んだ犬で、母犬が亡くなった後も歩向は誰よりも可愛がり続けていた。楽しいときも寂しいときも、二人はいつも一緒だったのだ。目を閉じればありありとその姿が思い浮かび、すぐ傍に熊五郎がいるような気さえした。
「熊五郎」
思わずつぶやいた。そのとき、耳元で熊五郎の鳴き声がたしかに聞こえたのだった。
アユムはぱっと目を開けてきょときょとと周りを見渡した。しかし周りには熊五郎はおろか、誰一人として姿はない。それどころか、徐々に日も暮れ辺りはすっかり暗くなっているようだった。
「助けてよ熊五郎」
その声は空しく響くばかりだった。
するとそこに、どこからともなく、「リーン」と、今度は澄んだ鈴の音が聞こえてきた。頭だけ動かして見れば、そこには薄闇から浮かび上がるようにして、見たこともない光景が広がっていた。
白装束を着た集団が白木でできた長い箱のようなものを持ち、ゆっくりと歩いている。その顔は伏せられ、表情は見えない。ただ袖口に着けられた鈴だけが、ゆっくりとした歩調に合わせるように涼やかに鳴り響いている。何が辺りを照らしているのかとまじまじ見れば、火の玉が集団へついてくるようにして浮かんでいるのがわかった。
狐火だ。歩向はかつて、祖母から昔語りとして闇夜に浮かぶその火の玉について聞いたことがあった。夜毎徘徊する狐の行列。見れば生きては帰れないという。
ではこいつらは人間ではないに違いない。
その異様な光景に思わず悲鳴を上げようとした歩向の口を、誰かが手で塞ぎ、さっと道の脇に引っ張り込んだ。
じたばたと力の限り暴れるが、その手はビクともしない。大きく、硬い手が鳴けばんとする口を、暴れる手を、しっかりと抑え込んで離してくれない。その手からは生臭い獣の匂いがした。
「大丈夫だ」
暴れる歩向の耳元で、知らない誰かの声がした。落ち着いた、大人の男の声だった。どうやらバケモノではないらしい。アユムが観念して力を抜くと、その人はやっと歩向を解放してくれた。肩を持ち、向かい合うようにして体を反転させてくる。どうやら逃げ出せそうにはないらしい。
金髪に彫りの深い土塗れの顔に、銀の瞳が鈍く光っていた。彼は言う。
「静かに。大切な葬儀の邪魔をしてはいけない」
落ち着いたことを確認すると、その人は歩向の肩に手を乗せたまま集団が通り過ぎていくのをじっと見ていた。歩向はその間その人に近寄り、ぎゅっと服を掴んで離さなかった。
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