短編【趣味は合わないけど、それでもいい】

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短編【趣味は合わないけど、それでもいい】

「このマグカップ、取手が熱くなるね」  梨奈は軽い調子で言う。  すると母は「そう?」と首を傾げた。 「うん、なんかここのとこが」  持っていたマグカップ2つをベッドボードに置いて、そのうち母専用のピンクのカップを指差す。  母専用と言っても別に使ってはいけないというわけではない。なんとなく「お母さんのマグカップ」と思っているだけだ。  それは梨奈が幼い頃からあるマグカップだった。いつからあったのかというと、よくわからない。幼いと言っても、中学ぐらいだったように思う。  要するに見慣れたものであった。  使ったことも何度かある。  しかし取手が熱いと思ったのは初めてだった。  母は不思議そうにマグカップを持ち上げた。 「うーん。持ち手がちょっと小さいから、器に触って熱いんじゃないの?」 「あ、そうかも」  なるほど確かにそんな理由だろう。  特に疑問の解明にこだわることでもないので、適当に同意する。  どちらかというと「取手じゃなくて持ち手と呼ぶべきだったのか」というような些細なことが気になった。あまり言葉を間違えていると阿呆に見える気がするので嫌なのだ。  実際、取手でも持ち手でも、きっと気にする人はあまりいないだろうけれど。 ──わかっていても気になるんだよね。  そこまで考えて、梨奈は首を小さく振った。  また、ネガティブに考えている。  また、人の目を気にしてる。  こういう性格だから、うつ病になって実家に帰るハメになって、それも母の隣で寝ることになるのだ。  一人だと眠れないなんて、恥ずかしい。 ──ほら、また。  悪い方向に考える癖は、なかなか治らない。 「持ち手の形って大事だよね。それにお母さんのマグカップちょっと重たいから、持つ時に根本持っちゃったよ」 「梨奈のやつは軽いもんね」 「実家で使ってるやつはね。でも向こうの家ではもうちょっと重いやつ使ってるよ」  適当に思考を中断して、そんな話をしながら梨奈もベッドに潜る。  向こう、というのは独り暮らしの部屋のことだ。  こちらの、つまり実家のベッドは父母用なので大きなクイーンサイズ。  父が長期出張でいないから、今は梨奈と母のベッドだ。  部屋は母が暑がりなのでエアコンガンガン。  あまりに寒いので、掛け布団がないと梨奈のほうが風邪を引く。  マグカップが熱いのも同じ理由。  梨奈が温かい飲み物のほうが好き。という理由もある。ちなみに母は冷たい派。今日母のマグカップが熱いのは、梨奈の手違いだ。  だから多分、母は冷めるまで飲まない。  梨奈は潜り込んだベッドの中で、腹ばいになったままマグカップを手に取る。  中にあるのはほうじ茶だ。  熱々で飲みにくいが、少し口に含めばじわっと食道を温もりが通り過ぎる。  この良さがわからないとは、不思議だ。  突然、母が「そうだ」と声を上げた。 「なに?」 「明日マグカップ買いに行こうよ」 「え?」 「独り暮らしの家に持っていったのって、前こっちにあった古いマグカップでしょ? 可愛いの買いに行こうよ」  梨奈は一瞬ほうけた。  確かに、母の言うとおりだ。言うとおりなのだが。  独り暮らしして早5年。新しいマグカップなど買ってしまっている。  新しいのはいらない。 「えーっとぉ」  梨奈は口ごもった。  正直にもう買った、と言えばいいのだが、ここで買ったからなんて言ったら、母のことだ「写真送って見せて!」とか言うに違いない。 ──それはちょっと……。  困る。  なぜなら梨奈は隠れオタクだから。  たくさんたくさんマグカップを持っているとも。  そう。  キャラクターもののやつをたくさん。 ──だって、アニメのグッズでマグカップが一番実用性ある気がするんだもん。  ……無論、言い訳だが。  実際は使うのがもったいなくて鑑賞用になってしまっている。  それはともかく、マグカップがいくつもあることに変わりわないわけで。  ただ、そのどれも母にはちょっと見せられない。  半裸のイケメンキャラのマグカップなど、はたして少女趣味な母に見せて大丈夫だろうか。  いや、大丈夫ではない。  内心であらゆる言い訳をしながら、梨奈は曖昧に笑う。  言えないなら諦めて買いに行けばよい。  しかし、問題は別にもある。  何度も言うが母は少女趣味なのだ。  ピンク、フリル、レース、ハート、かわいいのはわかるが、趣味じゃない。  趣味が全力であわない。  一緒に買いに行けば、そういうのを買わされそうだった。 ──やっぱりそれはちょっと……。  梨奈は自分のだした軽率な話題に後悔し、冷や汗を隠してベッドに突っ伏したのた。 「そうだねぇ〜、買おうかなあ〜」  と、投げやりに言う。 「そうしよう! じゃ、もう寝よっか」 「え!? もう?」  まだ時計の針は22時。  明日は土曜日。  早くない?  梨奈は夜型なのだ。そして母は朝型。  母的には全く早くない。  豆電球残して暗闇になる。  梨奈は真っ暗のほうが寝やすいのだが、母は昔からちょっと電気をつけとく派だった。  徹底的に合わない趣味と主義。  「実家に帰ったの失敗だったかもしれない」と、毎日夜になると思っていることを、今日も思う。  渋々布団に潜り込んだ。  そこに、母の小さな声が届く。 「おやすみ」 「……うん、おやすみなさい」  ……やっぱり。  実家に帰ってよかった。  例えあらゆるものが合わなくても、ここにいれば、挨拶に返事が帰ってくるのだから。  ぬくぬくと布団が温かくて気持ちがよかった。 ──ああ、ところで、マグカップどうしようかな。
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