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 そこまで一気に読み進めた若者は一旦、口をつぐんだ。掲げていた木版を居並ぶ裁判官の一人に渡して、代わりに二枚目の木版を受けとる。また高々と掲げて続きの文字を読み始める。 「乳母殿はアリンに衛兵を呼ぶよう指示を出された。衛兵が到着するまでの間、女が逃げ出さぬように窓に鍵をかけ、扉近くで女を監視された。衛兵とともに親衛隊所属の騎士・イザ殿も駆けつけ、女を取り押さえた。姫君の行方を尋ねたところ、女は自分が姫君だと言い張り誘拐については知らぬふりを通した」 「誘拐? 私が? 誰に攫われたの?」  姫君が思わず尋ねると未だ腕をつかんだままの衛兵が握った手に力を込めた。姫君は顔をしかめて口をつぐむ。  裁判官はそんなやりとりは無視して「以上であります」と宣言し、元の位置まで戻った。  部屋の反対側、裁判官たちと対面するように立っている白い衣装の教会員たちの中から一人、こちらは白髭を長く垂らした穏やかな老爺が進み出た。 「神の慈悲を賜り被告に弁解の時を与えます。なぜ姫君の部屋にいたのか、姫君の行方はどこか、正直に述べなさい」  姫君は言われていることが理解できずに何度も瞬きをした。 「私はここにいます」  老爺は表情を変えることもなく問う。 「被告はまるで自分が姫君であると思っているようですね」 「私は私です」 「私、というのは誰のことでしょうか」 「私は……」  姫君は名乗ろうとして、はたと動きを止めた。名前が思い出せない。 「私は……、私の名前は……」  記憶を探っても自分の名前が出てこない。父王の顔を見上げる。抱き上げられ、名前を呼ばれた記憶が蘇る。だが、その時呼ばれたはずの名前がまったく思い出せない。老爺が静かに尋ねる。 「被告、あなたは誰ですか」  姫君は答えようと記憶の中を探り続けた。父も母もいつも愛情を込めて自分の名を呼んでくれた。名付けてくれたのは祖父である先の国王だ。祖父とは面識がなかったが、神の加護があるようにと神聖な名前を付けられたのだと教会で聞いた。母は幼い頃、自分の名前をハンカチに刺繍してくれた。あのハンカチは今どこにあるのだろう。友は自分を愛称で呼んだ。その愛称だけでも思い出せれば……。
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