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 それきり老人は黙ってしまった。姫君は牢屋を堪能しようと、ぐるりと辺りを見渡した。見渡すといっても、牢屋はとても狭い。天上も低く、イザが入ったら腰をかがめないといけないだろう。床の三分の二ほどの大きさの木の薄い板が敷いてある。ちょうど人が寝そべることができるくらいの大きさだ。奥の隅にとても嫌な臭いがする木桶がある。姫君は中を覗いてみたが空っぽで、なにに使うものか見当もつかなかった。  木桶の後ろからなにか紐のようなものが出ていた。引っぱろうと指を出すと、紐はさっと木桶の陰に隠れた。木桶をどけてみようかとも思ったが、手を触れる勇気は出なかった。しばらくじっと待っていると木桶の陰から小さなネズミが顔を出した。 「まあ、ネズミ? 絵本で見たのとそっくりだわ」  嬉しそうにはしゃぐ姫君をネズミは疑わし気に見上げると、チューと鳴いた。 「ネズミを見て嬉しがるなんて変な人間」 「え?」  幼い子どもの声がして、姫君は思わず辺りをきょろきょろと見まわす。牢屋の中に子どもなどいない。立っていって鉄格子から外を覗いてみても子どもはいそうにない。ネズミがまた短くチュッと鳴く。 「今だ、逃げよう」  子どもの声はネズミの鳴き声とぴったり同じタイミングで聞こえてくる。姫君が振り返ると、ネズミが壁の石と石の間の隙間に駆け込んだところだった。 「まさか、本当にネズミが喋るなんて。絵本の中だけじゃなかったのね。マルタにも教えてあげたいわ」  のんきに言いながら姫君は床の木の板に座り込んだ。板も湿っていて服に水が浸みてくる。春とはいえ、日の当たらない地下の石牢は冷え冷えとしていた。膝を抱いてぎゅっと体を縮こまらせる。裸足の爪先も、剥き出しの白い腕も寒さに鳥肌だってきた。 「寒い……」  呟いても狭い牢屋の中から、この声ですら出ていけないような気がした。姫君はそのままの姿勢でじっと待った。なにかが起きるのを待ち続けた。そのうち空腹になり、それでも待ち続けるしかなく、最後には胃がきりきりと痛みだした。空腹が募ると痛みが起きるなどと想像もしたことがなかった。いつだって姫君の周囲には望むものがすぐに届けられていたのだから。
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