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一緒にごはんを
目を覚ますと、雨の音がした。
起き上がって僅かに光を孕んだカーテンを捲ると、外はしっとりと濡れていた。道路には傘がいくつも開いている。今日が休みの日でよかった、仕事に行くのが少し億劫だから。
「森見」
窓から目を離して、声の方を振り返った。ネクタイを締めながら伊坂が入ってくる。学生の頃からネクタイを結ぶのは下手だったのに、ずいぶんと様になるようになった。初めて出社する日は俺が締めてやったのに。
まだ頭がぼんやりとしているのが自分でもわかる。取り止めのないことばかり考えている。
「悪い、もう行かなきゃいけない時間だから。お前はまだ寝てていいし」
「ああ、今日は研修の日か」
「そうなんだ。めんどくせえよ」
心底面倒臭そうな顔をする伊坂を見ていると、高校生の頃を思い出す。テスト前になるとよくこんな顔をしていた。それでもこいつが勉強をさぼったことはなかったな。
「浩之」
ベッドに起き上がって座っていた俺は、いつの間にか目の前に膝をついた伊坂に目線を合わせる。その顔はなぜか真剣そのもので、俺はそれが不思議だった。なんでこんな顔をしているんだろう。
「今日の夜、一緒にご飯を食べよう」
「どうしたんだ」
「この部屋でもいいし、お前のところでもいい。ともかく一緒にご飯を食べよう」
「それはいいけど、なんなんだ」
「今日も、明日も」
「明日は遅くなるから多分無理だ」
伊坂の言いたい事がわからなくて戸惑う。真剣な顔をしているから冗談を言っているわけじゃないことはわかるけれど、それが何を意味しているのかがわからない。
「明日がダメなら、あさってでも、来週でも」
「だからいったい、」
「これからもずっと、一生、一緒にご飯を食べよう。そう決めた」
「決めたって……」
伊坂が困ったように笑う。その顔は大人になってから覚えた笑い方だ。俺はその顔が好きだった。
「なあ、あそこに行こうか」
急に話が飛んでついていけない。やっぱり俺はまだ少しぼうっとしている。いったいなぜ伊坂がこんなことを言い出したかわからずにいる。別に特別なことじゃない気もするし、何かとても大事なことを言っているような気もする。
「まだ一度も一緒に行ったことのない場所」
海岸通りの桜並木に。
伊坂はそれだけ言うと立ち上がって、俺の返事も持たずに慌ただしく部屋を出て行った。今日は早くに出かけなければならないのに、部屋に来て申し訳なかった。大した用事もなかったのに。
いや、ちがう。
俺は昨日、伊坂に別れを告げに来たのだった。
伊坂が出て行ったドアを見ている。
『お前と別れない』
昨日も同じ真剣な顔で言ったんだ。
シャツを通して何か冷たいものが腕に触れた。その場所は小さく染みを作っている。なんだろうと思うそばからそれは大きさを増して……それは確かに自分の目から流れ落ちたもので、俺は自分が泣いているのだと気がついた。
「なんで泣いてるんだ」
けれど涙は自分のものじゃないように止まってはくれなくて、俺は少し笑った。その笑い方はきっと俺が好きな伊坂のそれと似ている。
「お前はばかだなあ」
けれどお前がそう言ってくれるなら、愛していると、俺と同じ思いを返してくれるなら。俺はお前と別れずにいたい。
なあ、理一。
「今日も、明日も、一緒にご飯を食べよう」
来週も、来月も、来年も十年後も。ずっと一緒に。
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