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「なんか、すごい緊張してきた。やっぱりネクタイで来た方が良かったんじゃないか」
伊坂が自分の服を見下ろしながら、シャツの第一ボタンを留める。黒のジャケットを着た伊坂は、普段よりはきちんとした服装だった。
「就職試験じゃないんだから」
「就職試験なんかよりずっと緊張するに決まってんだろ。あれだぞ」
「どれだよ」
いつになく硬い面持ちの伊坂がおかしくて、思わず笑ってしまう。本人はいたって真面目なわけだから笑うのはかわいそうだが、おかしいのは仕方ない。案の定、伊坂がすねたような顔で俺を見た。
「娘さんを下さいって言いに行くんだぞ」
「娘じゃないけどな。うちの家族とは何度も会ってるだろ」
「友人としてな?」
久しぶりに帰る実家の前で、5分くらいは経っただろうか。俺は自分からは動き出さずに、伊坂が踏み出すのを待っている。二人で決めたことだけれど、伊坂がやっぱり無理だというのなら、あえて俺たちのことを両親に言う必要はないと思っていた。
「いや、そういうわけにはいかない」
なかなか踏み出さない伊坂にそう言えば、静かな、強い口調で言い切った。
「俺はちゃんとお前の両親に話しておきたいんだ。もしかしたら認めてはもらえないかもしれないけど、それでも俺はちゃんと伝えたいんだ」
「……ああ」
「ただ、その決意は本物なんだけどな……いざとなると、こう」
「そうだな。お前はいざとなると腰が引ける」
俺は伊坂を置いて足を踏み出す。すると後ろから慌てたようについてくる足音が聞こえて、俺は実家のドアを開けた。
俺だって緊張していないわけではない。今まで恋人がいると家族に言ったことはなかったし、まして男と付き合っているなんて言うつもりもなかったから。それでも伊坂が決めたのなら、俺はそうしようと思ったのだ。たとえ両親が俺たちのことを反対したとしても、もう覚悟はできている。
「大丈夫か」
後ろを振り返るとまだ緊張した顔の伊坂がいて、俺は少し笑った。それに伊坂が笑い返す。そして隣に並ぶと、俺はただいまと声をかけた。
「おかえりなさい。あら、どうして伊坂君が一緒なの?」
奥から出てきた母さんが不思議そうな顔で俺と伊坂の顔を見比べる。俺は今日の要件を紹介したい人がいるからと伝えていた。当然、結婚の報告かそれに近いものだと思っていただろう。隣にいる俺にしか聞こえないぐらい小さく息を吸い込んだ伊坂が口を開いた。
「報告しなければならないことがあります」
「伊坂君が?」
「とりあえず、上がってもいいか」
「それはもちろん、いいけど」
戸惑ったふうの母さんに説明することなく、家に上がった。報告するのは両親が揃ってからと決めていた。母さんが先に立って歩いていく。その後ろを歩きながら、俺はちらりと隣を歩く伊坂の方を見た。その顔は真っ直ぐに前を見ていて、緊張はしているもののさっきまでの気後れしたような色は残っていない。こいつのそういうところがかっこいいと俺は思っている。
居間に入ると、父さんがテレビをつけたまま新聞を読んでいた。俺たちが入ってきたことに気がつくと顔を上げる。それから俺の隣に立った伊坂を見て、もう一度俺に目を戻した。そして結局何も言わずに新聞紙を畳むと、テレビを消した。
「どうぞ」
母さんが俺と伊坂、それから父さんの前にお茶を置くと脇に座った。
「あれ、今日って恋人紹介イベントじゃなかったの?」
どうやって切り出そうか考えていた俺の第一声を制して、姉さんが居間に入ってきた。ちゃっかり自分も座ると、父さんの前に置かれたお茶を飲む。
「何で姉さんまでいるの」
「だって、女っ気のなかったあんたが急に紹介したい人がいるとか言い出したって母さんに聞いて、興味津々でさ」
「わざわざわかりやすく野次馬に来たわけだ」
うんそう、と悪びれることもなく言い切った姉さんは俺と伊坂を見比べて、母さんと同じように不思議そうな顔をした。
「まさか紹介したい人って伊坂君ってわけじゃないでしょ?ていうか紹介されるまでもなく知ってるし」
真面目に話そうとしていた俺は出鼻を挫かれてしまったが、話の方向が図らずも軌道に乗ったのを見計らって本題に入ることにした。
「姉さんの言う通りだよ」
「あたしの?」
「紹介する。俺の恋人だ」
さすがに予想もしていなかったのか、姉さんは驚いて声も出ないようだった。その横で同じ顔をした母さんが口を開けている。父さんはというと、何を考えているのかその表情からは読み取れなかった。よくしゃべる姉さんは母さんに、そして話すのがあまり得意じゃない俺は父さんに似ている。その父さんは何も言わずに俺と、それから伊坂を見ていた。
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