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なんてことだ。俺は地球上でもっとも恐ろしいウイルスに感染してしまった。このウイルスに感染すると、自分の意思とは無関係に、思っていることが勝手に口をついて出てしまう。そのせいで昨日も職場で言ってはいけないことを言ってしまい大騒動になった。これは世間では“口軽”と呼ばれるウイルスで、感染すると『ついうっかり』を連発してしまうとんでもない病気なのだ。
この病気に効く特効薬はまだない。そこにきて不運はつづく。
週末に新入社員の歓迎会があり、社長の側近である俺は司会を担当することになったのだ。そうなると歓迎会の最中に自分の意思とは裏腹に社長のトップシークレットを暴露してしまう可能性がある。
もしそんなことになってしまったらどうなることか。
待っているのは左遷? いやクビか?
俺は自分の口にメガトンパンチを喰らわしてやりたい衝動に駆られた。
これまで俺は社長のわがままに散々振り回されてきた。せっかくの週末も子どもたちとの約束を破って行きたくもないゴルフにつき合い、キャバクラでも合いの手以外は口を結び、のど元まで出かかっている悪態や暴言を堪え、それでいてそのことをおくびにも出さず笑顔で乗り越えてきた。
それなのにその努力が一瞬で水の泡になりかねないのだ。
天使のように優しい妻や幼い子どものことを思うと悲しくなった。このままでは家族を路頭に迷わすことになる。
そうだ。俺はひらめいた。司会進行を事前に録音しておいて、当日は口にガムテープをしたうえでマスクをして口パクでやり過ごすのだ。
もうこの方法しかない。
そして、運命の日がきた。
司会進行は口パクで順調に進んだ。どうにか切り抜けそうだ。
あとは社長による締めの万歳三唱が残るのみ。
「宴もたけなわではございますが、時間の都合上、この辺でお開きにいたします。最後に社長の万歳三唱で締めくくりたいと思います」
社長が待ってましたとばかりにマイクを握る。
「今夜はわが社の未来を背負って立つ、期待の新人の門出を祝う会でした。思い出してください。皆さんも新人時代があったはずです。そのときのピュアな気持ちを……(延々と続く)」
社長の話は長い。万歳三唱まで一体どれぐらいかかるのだろうか。
緊張がつづいた俺の意識がだんだん遠のいていく。
そのとき、あまりにも長い社長の話のせいで、俺の口をふさいでいたガムテープの粘着力が弱まってきた。
額に汗が浮かんできた。すぐに汗は滝となって顔面を流れはじめた。
「キミ、具合でも悪いのかね?」
俺の異変に気がついたのか社長が俺を見た。
べりっ。マスクの下で耐えてきたガムテープがはがれる音がした。
もう限界だ。自由になった俺の口は意思に関係なく開いた。
「いつまでしゃべってやがんだ。このボケ社長。そのてんかちに乗っかってるヅラをはがして口ふさいだろかい」
し~ん。会場の空気が一気に凍りついたのがわかった。
翌日、季節はずれの人事異動が発表された。
異動 旧 東京本社営業 新 ほほ無人島支店 清掃員
無人島で清掃? 意味ねえだろ。
俺の目から涙が溢れ出した。
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