思い立ったが吉日

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思い立ったが吉日

 ――死のう。そう思ったのは、本当に突然の事だった。 「君には失望したよ。まさか会社の金を横領していたとはね」  呼び出されて開口一番、課長にそう責め立てられる。  予想だにしない叱責に、彼女――沢村詩織(さわむらしおり)は反応するのが遅れた。 「突然、何を言うんですか? 横領なんて……。違います、何かの間違いです。私はそんな事やっていません」  声が震えながらも何とか反論する。事実彼女は横領などしていない。全くの濡れ衣だった。  しかし課長は彼女の言葉に耳を傾ける様子はなく、苛立たしげに溜め息を吐いただけだった。 「全く、往生際が悪い。証拠は見付かってるんだ、言い逃れは出来ないぞ」  彼女が犯人だと信じて疑わない態度に詩織は目を見張る。非情な言葉に目の前が真っ暗になった。 「とにかくこれから監査が入る。そうすれば全て明らかになるだろう。……それまで君は自宅謹慎だ」  そうして詩織は茫然自失のまま、部屋から追い立てられたのであった。  現実に頭が追い付かないまま、何とか詩織は自分のデスクがある経理部に戻った。  始業時間はとっくに過ぎていて、遅れてやって来た彼女に同僚が一瞬目を遣る。しかしすぐにパソコンに視線を戻して自分の業務に戻っていった。  本来なら詩織も早く仕事に取り掛からなくてはいけない。しかし自宅謹慎を命じられた今、帰宅する他選択肢はなかった。  椅子の背凭れに手を置き、小さく息を吐く。 「――沢村さん」  混乱する頭を整理しようとしていると、背後から声を掛けられた。 「はい」  振り返るとそこには男性社員がいた。  詩織と同年代位だろう、軽薄な笑みを浮かべながら詩織に歩み寄って来る。  人を馬鹿にするような嫌な笑みに、詩織は内心眉を顰めた。  見覚えはあるが咄嗟に名前が思い出せない。詩織はさり気なく、彼が首から提げているネームホルダーを盗み見た。 「何か用でしょうか――平野(ひらの)さん」  思い出した、彼は営業部の平野だ。  営業部とは経費の申請等で度々関わるのだが、彼は特に申請書に不備が多かった。その為何度か彼を呼び出し、書類を突き返した事がある。  何とか彼の名前を呼んだ詩織は、平静を装いつつ用件を尋ねる。  すると平野は機嫌良さげに口の端を上げた。 「聞きましたよ。会社の金を横領したって。いやー、悪い事は出来ないものだなー」  わざとらしく声を張り上げ、平野は天を仰ぐ。  無神経な平野の発言に刺されたような鋭い痛みが胸に走った。濡れ衣だが、それを同僚達がいる前で話されたくなかった。  案の定、平野の声は周りにも聞こえていたらしく、同僚達がひそひそと囁き始める。  心臓が嫌な音を立てて忙しない。  詩織は胸の前で両手を合わせると、胸を押さえ付けた。無理だと分かってはいたが、心臓の鼓動を落ち着かせたかったのだ。 「……私は、そんな事やっていません」  弱々しくも否定する。しかし平野は「何言ってるんですか?」と彼女の肩を叩いた。 「証拠はあるんです。潔く罪を認めちゃいましょうよ」  優しく声で残酷な言葉を掛ける平野。  いくら何でも皆の前で言い触らさなくてもいいではないか。これではまるで公開処刑だ。詩織は俯き唇を噛んだ。  しかし不意にとある疑問が、詩織の頭の中に湧いた。  ――どうして営業部の平野が、横領の事を知ってるのだろうか。  いくら有罪確実と決め付けられているとはいえ、まだ詩織は横領の疑いが掛けられている段階に過ぎない。しかもまだ監査が入る前で、事実関係すら明らかになっていないのだ。同じ経理部の人間ならまだしも、営業部の平野が知っているのはおかしい。  顔を上げた詩織は平野を凝視する。  すると彼は不敵な笑みを向けると、彼女の耳元に顔を寄せた。 「――僕に逆らうから、こんな事になるんですよ」 「!」  周りには聞こえない小さな声。しかし詩織には嫌という程はっきりと聞こえた。  ――嵌められた。  この時彼女は、横領の濡れ衣を着せた犯人が平野であると確信した。  しかしその理由が分からない。詩織には平野に限らず、誰かの恨みを買った覚えはなかった。 「――平野さんって、確か社長の息子さんだよね?」  仕組まれた事だと分かり混乱していると、背後から同僚の囁き声が聞こえた。先程の平野のそれとは違い、はっきりと話の内容が聞き取れる。 「それなのに沢村さん、よく平野さんの書類に不備があるって突き返してたもんね」 「だから嵌められたの? 恐い」 「でも沢村さんも沢村さんだよね。もう少し融通利いてれば、こんな事にならなかったのに。恨まれても無理はないよ」  酷く他人事で心ない言葉に、詩織は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。  だが皮肉にも同僚達の会話のお陰で、自分が嵌められた理由が分かった。まさか職務を全うした結果、社長の息子である平野の恨みを買ってこんな事になったとは。一生懸命仕事に取り組んでこんな目に遭うとは、全く想定していなかった。  ――しかし何より詩織が堪えたのは、今まで共に仕事をしてきた同僚達が無関心な態度を取ってきた事だった。  ――誰も、詩織を助けてくれない。  自分が会社にとって必要不可欠な存在だとは思わない。しかし少なくとも仕事を円滑に進める歯車の一つになっていたという自負はあった。  同僚達とも助け合いながら仕事をやってきたのだ。誰か一人は詩織の無実を信じていると庇ってくれると思っていた。  しかしそれすらも思い上がりだったと思い知らされる。  頭が真っ白になり、詩織はその場に立ち尽くしていた――。
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