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一.両想い
秘書は社長のサポートをする仕事であり、運転手ではない。運転ならば運転のプロに任せればいい。
この一筋通った考えに私は憧れた。何をするにしても芯がぶれない姿は、美しささえ覚える。
「それでこのクライアントだけど」
「はい。来週の金曜日にアポイントをとってあります」
「ありがとう。商談の資料、出来次第見せて」
「承知しました」
淡々と話す社長だが、そこには仕事中という公私を分けた意識から来ている。現に休憩中や出張先の職務時間外には、砕けた口調で話し、ときに別人のようにも見える。それは付き合いの長さが関係していることは、否めない。
出張先での予定が終わり、ホテルに着くとチェックインを済ませた。もちろん、部屋は別々である。それは公私を分けるという意味でも必要なことだった。それでなければ他の社員に示しが付かない。
「じゃあ、一時間後にロビーで待ち合わせね」
「承知しました」
当然だが会社名で取った二部屋は連番である。社長だからといって高級な部屋に泊まることもしない。そこに経費をかけるくらいならば、社員に還元する方が得策だと聞いたことがある。
しかし実際のところ、あまり部屋にこだわりがないことを私は知っている。
同じエレベーターで上がっていく。静かなモーター音だけが唸っている。社長が肩の荷を下ろすように言葉を発した。
「今日の相手、疲れた。何か美味しいものが食べたい」
「分かった。良さそうなお店探しておく」
「美味しいお酒も欲しい」
「もう、分かったから、時間通りにロビーに来てよ」
「毎回、言わなくても分かってるから!」
「遅れてきたら、食事代おごりだからね」
「厳しいなぁ」
エレベーターが目的階で開き、各々の部屋へと入っていく。荷物を置き、ジャケットを脱いだ。
社長はこれだから困る。仕事モードが切れると途端に甘え出す。おまけに時間にも大雑把になってしまう。
仕事のときはできるのにプライベートでは、真逆の性質を見せる。時間は守れないし、優柔不断になるし、凛とした雰囲気もなくなる。
それにはもう慣れたもので、むしろ私だけに見せる一面は、今では嬉々としてしまう。付き合い始めて十年の歳月が、そこには確実にあった。
スマートフォンを手に取ると好きそうな店を探す。この場所には何度か来たことがあるため、ある程度の土地勘と店は知っている。ただそれは社長のみなみも同じで、行ったことがある店も多い。だからもし以前行ったことのある店に行きたいのならば、名前を出すだろう。
それがないということは、新規開拓のほかない。この地域にお気に入りの店はないか、もしくはその気分ではないのだ。
タップしてスクロールして、また検索を繰り返す。猶予は一時間。もう秘書の業務は終わっているというのに妥協は許されない。こんなとき自分の世話好きと完璧主義が憎らしくなる。
プライベートのみなみは、特にこだわりを持たない。だからこそ、大外れを引かなければ、どうということもない。必要な条件は美味しい料理と良質なお酒、落ち着いた店内だけである。今となっては、ただ二人で時間を共有できればそれで構わない。
付き合い始めの二十代半ば頃は、情熱的な恋愛をしていた。そのときから社長と秘書の関係で、社内にバレるのではないかと冷や冷やとしていた。
隠し通して数年が経った頃、他の社員が気付いていたことを知る。ここまで隠し通してこれた方が奇跡的だったのかもしれない。
不倫でもなければ、浮気でもない。ただマイノリティということだけで、肩身の狭い想いをしているだけなのである。悪いことはしていない。
とてつもない罪悪感に襲われたとき、みなみは社員を集めてこう言った。
「世の中には多種多様の人間性があり、それに応じて価値観や提供するサービスも違ってきます。それを互いに尊重し、よりよいサービスを社会に送っていきたい。改めて聞きます。もし今の会社理念に賛同できない人がいるなら、申し出てください。悪いようにはしないことは、ここで約束します。そして周知の通りかもしれませんが、私と喜多は付き合っています。私達はただマイノリティであるが故に好奇な目で見られることが多いのは事実です。だからこそ真摯に向き合っています。公私は分けることを約束します。これに異を唱えるものがいるならば、申し出てください」
みなみの社長としての手腕が光った瞬間だった。リーダーとして、また一人を守るため、人としての格の違いを垣間見た。
あぁ、この人に愛されている私は、至極幸せなのだ。ずっと隣にいたい。
あれから数年が経つが、誰一人として辞めたものはない。それどころか業績は伸び、社員数も増えた。各々がそれぞれの価値観を認め、自由な社風はみな生き生きとしている。
時刻は小一時間が経過しようとしていた。仕事の一環と荷物が増えるからという理由で、特別な着替えは持ってきていない。
せめてもと最近は、アクセサリーだけは持参している。髪留めを付け、華やかなピアスも付ける。メイクを直し鏡の前に立つと、身だしなみを整え、ロビーへと向かった。
約束の時刻五分前にみなみは現れた。それが珍しくて、思わず言葉に出してしまう。
「普段は私の呼び出しで降りてくるのにどうしたの」
「たまには私だって時間くらい守るわよ」
「珍しい……じゃあ、行こうか」
下調べしておいた店へと向かう。大抵、このときみなみはどんな店かを聞かない。それは一任した相手を尊重しているからである。
カジュアルイタリアンの店へと入っていく。ダウンライトされた店内は、統一感のある木目調のインテリアで揃えられている。所々に飾ってあるワインボトルが、イタリアンのお店なのだと主張していた。
予約はしておらず、人数だけ告げるとテーブルへと案内される。
「どうする?」
「このコースにしようか」
「お酒は何が良い?」
「ワインのボトル開けよう」
みなみがワインリストから好みのワインを選別する。店員を呼び、肉料理が入ったフルコースを注文するとボトルワインを注文した。
カジュアルイタリアンといえどそれなりの金額がする。それを気にすることなく即決するみなみは、かっこいい。
優柔不断で店を決められないのにエスコートする立場になるとキリッとする姿に毎回、目を奪われる。だから私は選択することをやめた。
カクテルグラスに彩りよく野菜が盛られたムースが運ばれてきて、ワインが注がれる。
「お疲れ様。おかげで美味しい食事ができる」
「ありがとう。私も一緒に仕事ができて幸せ」
食事が終盤に差し掛かり、みなみがそっと切り出した。手元には綺麗に包装されたジュエリーボックスが置かれている。
これは何を意味しているのだろう。
小首を傾げるとワインで酔った潤んだ瞳でこちらを見据える。
「絵理はまだ若くていろんな選択肢を選べる。私はもう四十歳を超えて、だんだんと身動きが取れなくなってくる。だから――」
これで別れて。
そう続きそうで、話を折った。
「私ももう三十四歳。ただの小娘じゃない。知ってる、みなみが迷っていたことも。だから私から言わせて」
みなみの顔に睫毛の影が落ちる。
そんな憂いに染まった表情をしないで。
「隣にいさせて」
ホテルへの帰り道、ほろ酔いの私達は手を繋いでいた。傍目からはスーツ姿の仕事帰りとも思える大人な女性がおかしな行動をしていると思われるかもしれない。
それでもいい。
私は自分で道を選んだ。これからもみなみの隣で歩んでいく。もう決して疑ったりはしない。
首元には真新しいネックレスが月夜で煌めいていた。
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