第4章 そのときにきちんと向き合わないから、あとでずんと落ち込む羽目になる。

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「わたしの名前はコダマ、ハナミ。二十二歳で身分は不動産屋のバイト。◯◯県のど田舎から三ヶ月前に東京に出てきたばかりなの」 姿の見えない彼の返答が脳内に直に響いてきた。 『前半は既に知ってる。木の霊に葉っぱの波だろ。苗字とファーストネームの組み合わせがどんぴしゃだよな。あんたの親、センスあると思った』 「まあ。苗字は誰が選んだんでもないけどね」 まさかの親の命名センスを褒められて反応に困りごもごもと呟く。ハナミって、花と実じゃないんだ。珍しいねっていうのはまず百パーセント言われるけど。 『◯◯県出身てのは今知った。なんか、自然がいっぱいでいいとこそうだけど。ずいぶん中途半端な時期に上京したんだな。何か東京に目的があってなの?』 「うーん。こっちですることがあってというよりは。ちょっと、地元にいられなくなって」 『あ、そうか。婚約者に捨てられたんだったな』 ガキの残酷さでばっさりやられた。不意打ちだったので思いがけなく喉の奥にうっと来る。 『あれなのかな。あんた迂闊そうだから。ほいほい言われるままに他の男について行って遊び回って愛想尽かされたとか。どうせ地元で噂になって居辛くなったとかだろ。…あ、…その。ごめん』 あからさまに慌て出した。何だよそこまで無遠慮で最悪な口の利き方しといて。とか何とか言い返そうとしたら声が普通に出ない。 そこでようやく自分が泣いているのがわかった。 一度箍が外れたら止めようがない。やつが脳内であれこれと宥めようとしている声は届いてはいるけど。何言われても全然意味が入ってこない。うるさいな、放っといてほしいと思うだけ。 こんなときくらい本当は一人になりたい。 思えば驚天動地のあの出来事が起きて以来、わたしはまだちゃんとそのことに向き合っていなかったんだと思う。事実をそのまま受け止めるには重すぎた。 だからとにかく適当に丸めて心の奥に押し込めて。幸いといっていいのかどうなのか、成光くんのことを消化してる暇もなく成春と婚約させられそうになってとにかく逃げ出して。そのあとは東京での生活に適応するのにいっぱいいっぱい、立ち止まってゆっくりものを考える機会もなかった。 だけど、そうだよな。わたしは肩を震わせてしゃくり上げながらとめどなく泣いて、自分に言い聞かせた。 幼稚園のときからずっと好きだった男の子にわたし、失恋したんだ。そのことをもっと早く自分の中で認めて、思いきり悲しんでおけばよかった。 そのときにきちんと向き合わないから。こんなに時間経ってから、今さらになって思いがけない場面でいきなり落とし穴に嵌ったようにずんと落ち込む羽目になる。 『…ごめん。ごめんてば、ほんとに。そんなに泣かないでよ、葉波』 ようやく奴のおろおろした声が意識の端に上ってきた。やっぱり子どもなんだな。自分の言葉の刃がどれくらいの切れ味なのか。そんな感覚もないまま平気で振り回してるだけなんだ。 そう思ってみればうろたえた声も心なしかそれまで感じてたより稚く思える気がする。わたしはひくひくする喉を何とか制御して涙を手の甲で拭い、顔を上げた。 子ども相手に本気で怒ったり泣いたりしても仕方ない。あんまり責めるみたいな空気になってもいけないし。もう泣き止まなくちゃ。 わたしは軽く息を吸って、何とか呼吸を整えて声に応じた。 「泣いてないよ、もう。あんたは気にしなくていい。こっちのことだから。別にそっちとは関係のないことだし」 『だけど。…無神経だったよ、本当に。思えば失礼だったよな、最初から。悪かったよ』 その声はさすがに恐縮してるみたいに聞こえた。 『どんな事情で別れたのかも全然知らないくせに面白半分でちょっかいかけて。…好きだったから婚約したんだもんな、そりゃ。傷つくのは当たり前だよ。それなのに、あんたが表面上冷静でいるからって。どうせ大して落ち込んでないんだろうって勝手に決めつけて』 「ほんとに落ち込んではいなかったんだよ。これまであんまり考えてる暇もなかったから」 息を吸って、吐いて。何とか普通のなんでもない声が出てきた。そろそろ大丈夫かな、と見極めて自分を落ち着かせてゆっくりと言葉を選ぶ。 「詳しく話すほどのことでもないけど。村の本家の跡取り息子と婚約してたのに、相手が海外留学中に親に無断で出来ちゃった婚してさ。それでお役御免だと思ったらその下の中学生の次男と今日から同棲しろ、って姑から言いつけられたもんで慌てて身一つで出奔してきたんだ。何がなんでもわたしを家に入れたかったみたい。こういう体質だからなんだろうけど」 『なるほど、それか。だけどそれにしても。中学生を押しつけてくるのは酷いなぁ』 さっきとは打って変わってわたしの味方になったつもりなのか、義憤に駆られた声で呆れる彼。 『お互いの意思とか感情なんか丸無視じゃんか。人間なんだから、こいつと結婚しろとか周りに強制されてもそういうわけにはいかないよな。…そうすると。そのお姑さんはあんたのその体質を知ってたってことになるよね』 わたしは無感情に肩をすぼめた。 「まあそういうことでしょうね。他にわたしじゃなきゃ、って条件なんか。正直一つも思いつかないから」 『そんなに卑下するほどでもないと思うけど』 彼はフォローが難しいと感じたのか曖昧な声でごにょごにょと濁した。
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