死にたくない

1/1
前へ
/6ページ
次へ

死にたくない

 俺は病室にいた。 「ご家族の方もご一緒に聞いていただきたく」  医師が身内を呼ぶよう言ってきたが、あいにく女っけはなく、両親もとうに亡くし、兄弟姉妹はいない。  がんの進行が進みすぎて、もう長くない。よほどの奇跡でもないと助からないと宣告された。  小さな映像制作会社に勤めて10年、ようやく仕事が面白くなってきたところだった。こっぴどい失恋はしたが、まだ恋だって結婚だって夢見ていた。 「誰か……誰か治せる医者はいないんですか!」  その医師の紹介から枝分かれする全てのツテを訪ね歩いた。ネットも口コミも洗いざらい利用して有能な名医を探した。  そして見つけた。ただし、あまりに有能過ぎて順番待ち。政財界、スポーツ界、福祉界等の重要人物が待ち行列を作っていて、……俺の番は百年後かも知れなかった。  それでも診てくれるという。腕も超一流なら患者に寄り添う心持ちも随一という噂、嘘じゃないらしい。  ――あいつだった。  診察室のドアを開けると、そこで微笑んで迎えた白衣の名医。 「久しぶりだね。名前を見てすぐわかったよ。君なら誰より先に会おうと思ったんだ」  俺は、わからなかった。姓が違う。こいつの名は平凡だ。 「うん、奥さんの病院を継いだからね。名前もそっちになったんだよ」  屈託なく言う笑顔は、間違いなくあいつの、誰をも引き寄せるオーラを伴ったそれだった。 「このレントゲンだと開いてみなきゃ確証はないけど、何とかなると思う。一緒に頑張ろう」  あいつの励まし。俺が何度も殺したあいつは、俺を助けようとしている。看護師に、俺を順番待ちの上位に割り込ませようとしている。俺は、……俺にはそんな資格は。  俺は椅子を飛ばして立ち上がった。そのままドアを飛び出して階段を駆け上る。  もういい。もういい。これは報いなんだ。俺は悟った。最初からこうするべきだったのだ。  屋上から見下ろす道路を行き交う車は小さかった。俺は金網を乗り越えた。 「待てよ」  声を振り返ると、すぐ横であいつが同じように金網を乗り越えた。 「何してるんだ?」 「一緒に頑張ろうって言ったろ? お前が飛び降りるならオレも飛び降りるからな」  あいつは……こんな俺にも寄り添う。名医だ。まだまだ多くの人が必要とする間違いない名医。なのに俺はその手を煩わすだけの迷惑な患者。俺を待っている人間は一人もいない。何で……何でこんなにも違うのだ――。  俺の目が潤んだ途端、一瞬力が抜け、手が金網を滑った。あっと声を上げると同時に足が空を切る。 「待てっ、やめろ!」  あいつが両手を放して俺に捧げるのが目に入った。そして……あいつは視界から消えていった。  俺は、……なぜそんなところに出窓があるんだ、という出っ張りに引っかかって。  そんな。そんな。頼む、俺はそんなつもりじゃ――。  石はもう光らなかった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加