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死にたくない
俺は病室にいた。
「ご家族の方もご一緒に聞いていただきたく」
医師が身内を呼ぶよう言ってきたが、あいにく女っけはなく、両親もとうに亡くし、兄弟姉妹はいない。
がんの進行が進みすぎて、もう長くない。よほどの奇跡でもないと助からないと宣告された。
小さな映像制作会社に勤めて10年、ようやく仕事が面白くなってきたところだった。こっぴどい失恋はしたが、まだ恋だって結婚だって夢見ていた。
「誰か……誰か治せる医者はいないんですか!」
その医師の紹介から枝分かれする全てのツテを訪ね歩いた。ネットも口コミも洗いざらい利用して有能な名医を探した。
そして見つけた。ただし、あまりに有能過ぎて順番待ち。政財界、スポーツ界、福祉界等の重要人物が待ち行列を作っていて、……俺の番は百年後かも知れなかった。
それでも診てくれるという。腕も超一流なら患者に寄り添う心持ちも随一という噂、嘘じゃないらしい。
――あいつだった。
診察室のドアを開けると、そこで微笑んで迎えた白衣の名医。
「久しぶりだね。名前を見てすぐわかったよ。君なら誰より先に会おうと思ったんだ」
俺は、わからなかった。姓が違う。こいつの名は平凡だ。
「うん、奥さんの病院を継いだからね。名前もそっちになったんだよ」
屈託なく言う笑顔は、間違いなくあいつの、誰をも引き寄せるオーラを伴ったそれだった。
「このレントゲンだと開いてみなきゃ確証はないけど、何とかなると思う。一緒に頑張ろう」
あいつの励まし。俺が何度も殺したあいつは、俺を助けようとしている。看護師に、俺を順番待ちの上位に割り込ませようとしている。俺は、……俺にはそんな資格は。
俺は椅子を飛ばして立ち上がった。そのままドアを飛び出して階段を駆け上る。
もういい。もういい。これは報いなんだ。俺は悟った。最初からこうするべきだったのだ。
屋上から見下ろす道路を行き交う車は小さかった。俺は金網を乗り越えた。
「待てよ」
声を振り返ると、すぐ横であいつが同じように金網を乗り越えた。
「何してるんだ?」
「一緒に頑張ろうって言ったろ? お前が飛び降りるならオレも飛び降りるからな」
あいつは……こんな俺にも寄り添う。名医だ。まだまだ多くの人が必要とする間違いない名医。なのに俺はその手を煩わすだけの迷惑な患者。俺を待っている人間は一人もいない。何で……何でこんなにも違うのだ――。
俺の目が潤んだ途端、一瞬力が抜け、手が金網を滑った。あっと声を上げると同時に足が空を切る。
「待てっ、やめろ!」
あいつが両手を放して俺に捧げるのが目に入った。そして……あいつは視界から消えていった。
俺は、……なぜそんなところに出窓があるんだ、という出っ張りに引っかかって。
そんな。そんな。頼む、俺はそんなつもりじゃ――。
石はもう光らなかった。
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