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「研堂くん。悪いけど、今日も良いかな?」
課長の坂山さんが隣の席から声をかけてきたことで、俺は視線を彼に向けた。
眼鏡の奥の柔和な目尻を下げ、恐る恐るといった様子は四十になる男には見えないあどけなさがある。
彼の手元にある黒い弁当箱には、カップに入ったほうれん草のお浸しや卵焼きが端に追いやられていた。
「ええ。かまいませんよ」
俺は笑みを浮かべて、坂山さんからお弁当箱と箸を受け取る。
「悪いね、いつも……いい歳して好き嫌いが多くて恥ずかしいよ」
「別に俺はかまいませんから。それに課長のことですから、奥さんに気を遣って入れないでくれって、言えないんじゃないんですか」
そう言って俺は少し震える手で、卵焼きに箸を伸ばす。一口大の卵焼きをさらに半分に切ると、何食わぬ顔でそれを口元に運んだ。
卵焼きを一旦口の奥に追いやると、箸の先端に舌先を軽く這わせていく。それから唇で挟み込み、ゆっくりと箸の無機質な感触を外に出す。
途端に歓喜の波が押し寄せ、体が震えるのを感じた。
「一番最初に甘い卵焼きは苦手だって、言っておけば良かったんだが……初めて作ってくれた弁当だったから、当時は美味しかったとしか言えなかったんだ」
坂山さんは決まり悪そうに言った。
実に奥さん思いのいい人だ。そんな彼の人の良さが俺には憎くもあり、愛おしくもあった。
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