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雪山
これは、私がある晩に見た夢の話である。
私はある廃れた木の部屋で寝ていたようだった。
ビュウウ、ビュウウという風が強く吹く音が聞こえる。
さっきまで私の隣で寝ていた筈の、私の妻であるいともこの夢には居ないようだった。
起き上がって、戸を目指して歩いていく度にギシ、ギシィ、という床が軋む音が部屋中に響いていた。
そうして戸の前に至ると、奇妙な事に、信じられぬくらい冷たい空気が戸を通して部屋の中へと入ってきたのだ。
少し奇しいなと思いつつ戸を開くと、そこから信じられぬくらいの突風が、見渡す限りの『白』から吹いてきて、私は反射的に戸を閉めた。
そこで私は理解したのだ。自分は今、冬の雪山の山小屋で遭難している事を。
これから、どうすればいい?そう考えていた時、戸から向って左隅の方に、一人の雪塗れの、男だろうか。それが蹲って座っていたのが見えた。
私はその男を見て反射的に戸の方へと後退していった。
しかしその男は、蹲ったまま、全く動かなかった。
いや、待てよ。きっとこの男も遭難してこの山小屋に逃げ込んで来たのだ。それをなんだ、『この男』などと呼ぶのは失礼に値するではないか。
そうして私は部屋の隅で蹲り動かないその男の事を、親しみを込め『雪男』と呼ぶ事にした。
あれから暫く沈黙が続き、風の所為もあるだろうが、空気が重く、冷たい。
何か話さなければ。私は恐る恐る雪男に近付いた。
「いやあ、凄く寒いですねえ。・・・・・・貴方も、この雪山で遭難されて?」
しかし雪男は一切口を開かず、代わりにこくん、と小さく頷いた。
「やはり・・・いやあ、本当に酷い吹雪ですねえ。明日には晴れますかねえ」
駄目だ。先から『いやあ』としか言っていない。もっと、この冷たく重い空気を何とかしなければ。
そうだ。思い返せばこれは夢だった。その事を冗談のように話してみよう。
「いやあ、吃驚しましたよ。何せ、ふと目醒めると此処に何時の間にか居たんですから」
すると雪男の顔がぴくりと動いたのが、私には見えた。
そうして、雪男が漸く口を開いた。
「ふと目醒めると、何時の間にかこの吹雪吹き荒れる雪山の山小屋で寝ていたと・・・・・・」
「ええ。ですから、私は今、夢を見ている最中なのではないかと思うのです」
暫くすると、雪男が口を開いて、何かごもごもと話す声が聞こえた。
何とか聞き取ろうとしたのだが、正確には聞き取れなかった。
そこで私は、彼はこんな事を言っていたのではないかと、後に解釈した。
『いいか。この世において、目に見えるもの、耳に聴こえるもの、そして一種の記憶として脳味噌に刻まれるもの、それら総てが現とは限らぬ。この世の総ての実を疑うのだ』
「は、はあ・・・・・・」
私はその時、彼の言っている事が全くと言える程に理解出来ず、そこでは只、そう流してしまった。
そしてある時、私はある事を思い返した。
そう言えばあの雪男、何時、何処からこの小屋の中に入って来たのだ。
そうか。思い出した。私は先程、その事で腰を抜かしていたのだ。
そこで私は、途方の無い考察を始めた。
奴は本物の雪男なのか。いや、只の雪男ならば、私に見えぬようにこの小屋の中に入る事は、ほぼ不可能だと考えてもいい。
若しくは、雪霊か。それが一番、この夢世界の中では現実的と言えるが。
「考えが纏まったか」
急に聞こえたその声に、私ははっとした。驚く程に鮮明で、野太い声だった。まるで、先まで消えかかっていた一つの生命が、たった今、息を吹き返したかのように。
しかし、私はふと気になった事がある。それは彼の言った台詞だ。
考えが纏まったか、そう言った。何の考えの事を指し示しているのだろうか。
まさか、考えというのは・・・いや、そんな筈は無い。
「また、悩んでいるな・・・?」
再び野太い声が聞こえた。
声の主は誰か。もし、あの雪男が声の主なら、声の型が違い過ぎる。しかし、この小屋の中には私と、あの雪男の二人しか居ない。
「何だ、今度は声の主が誰かで悩んでいるのか」
そうか、今ので私は気付いた。傍から見れば遅いものだ、と少しばかり感じる者も少なからず居るだろうが。
「声の主は、俺だ」
何と言う事だろうか。どうやらあの雪男、私の心の中の言葉が解るらしい。俗に言う、読心術と呼ばれるやつだ。
「成程な。お前は、俺に読心術の能力があると考えているようだが、実はそうでは無い。何故か知りたいか」
私は無言でこくりと頷いた。そんなもの、知りたいに決まっている。
「俺の正体は勿論、人間じゃあないし、お前の考えている雪男や幽霊などでも全く無い。俺はお前だ。理解ったか?」
何だと、この雪男が私だと言うのか。
「どうやら認めたくないらしいな。それに未だお前は俺の正体がイエティだと抜かしているようだが、そうでは無いと言っただろうが。好い加減、認めたらどうなんだ」
もう駄目だ。もう此奴には勝てぬ気がする。
「しかしなあ、先から俺はお前だと言っているのだがなあ」
どういう事なのだろうか。『俺はお前だ』などと。
「ほお、成程。負の掛け合わせか」
「ど、どう言う事でしょうか・・・」
「おいおい、敬語は止めろ。空気が重くなるだろう」
「わ、解った・・・・・・」
「よし、それで良い」
「それで、負の掛け合わせと言うのは・・・?」
「簡単な事だ。お前は只、理解力が足りなさ過ぎた。俺は説明が不足し過ぎていた。そう言う事だ。お互いの負と負が掛け合わさって、先のようなちっぽけな悲劇を招いたのだ」
「なら、私にきちんと説明してくれよ。貴方の本当の正体を」
「了解した。俺はな、お前の恐怖心によって産み出された、お前自身の恐怖そのものだ」
この雪男が・・・私の恐怖そのものだと・・・・・・?
「そう。俺はお前の恐怖の化身だ。お前が絶大なる恐怖を感じた時、現るのだ。但し、この世界だけの話だがな」
「どう言う事だ?」
「他の夢世の事や現世の事など、知るものでは無いからな。この世界だけでの事よ」
「成程な」
漸く総てを理解出来た。この夢の全貌を。これでもう何も怖いものは無くなった。
恐怖の根源は消えた。これで漸く安眠出来る。そしてこの夢から醒めれば、この男と会う事も無くなるだろうから。
「なら、私はここで失礼する。元の世界に帰らせて貰う」
「ふふっ・・・・・・」
その後、男は何故かあの低く野太い声で暫く笑い続けた。
暫くして、男が気になる言葉を口にした。
「お前、此処に来てから、一度でも俺の顔を見た事があるか?」
「確かに見ていないな。それもその筈。何せ、貴方はこれまでずっと私に顔を隠して来た。見れる訳が無いだろう」
「そうだな。俺は確かに今まで、お前に態と顔を見せなかった。何故なら、本当の恐怖というものを、最後の最後に、お前に教えたかったからだ」
本当の恐怖?何だそれは。
「お前は総てを理解し、安心し切っていたようだが、全くだ。お前は今此処で、本当の恐怖を知るまでこの夢からは・・・・・・醒めない」
私はこの一言で一気に震え上がった。しかし、男の顔を今此処で見てしまわなければ、この夢からは醒める事が出来ない、そう考えると、男の顔を見る他無いと私は思った。
「なら、その本当の恐怖とやらを、私に見せてくれよ」
「了解した」
すると男はむくりと立ち上がり、ゆっくりとその顔を上げた。
その男の顔は・・・・・・!
「はっ!」
気が付くと、私は自分の家の床の上で寝ていたようだった。
夢から醒めたのだ。
しかしあの男、本当に恐ろし過ぎた。それも、衝撃的な恐怖と、落胆的な恐怖を掛け合わせた、凄く凄く、微妙な恐怖であった。
しかしそこで、この何とも言えぬ微妙な恐怖こそ、本当の恐怖なのだと、私は理解したのだ。
あの時見たのは・・・・・・
私の妻である、いとの顔だった。
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