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蚊
これは、私がある晩に見た夢の話である。
私は自分の家の書斎で作品の原稿を書いていたようだった。
初めて見る作品だったが、何故かすらすらと筆が進む。これがこの夢世での、第一の奇妙なのかもしれない。
そしてこの蒸し暑さ。季節は・・・夏の中頃になるのか。そしてこの湿気だと、あの煩い蚊が多くなるだろう。彼奴等は湿気、水分を好むからな。すると・・・
ぷうん。
ほら、早速一疋飛んで来た。
煩い。音も、動きも。全く、厭なものだ。
兎に角忙し無く、極上の血液を求め飛び回る。その感じが、厭なのだ。
それに、蚊というのは、血を吸うのが雌のみらしい。雄の蚊は只、気楽に飛び回っているだけだと言うのに、人には何時も雌の蚊と間違えられて、無残にも殺されたりする。何とも理不尽なものだ。蚊というのは。
もし私が雄の蚊であったなら、直ぐにでも自害したいものだが、所詮は虫螻。自害する事は不可能だろう。
気が付けば、一疋だった蚊が、二疋に増えていた。
そう言えば、分かる奴の中には、羽の動きなどを見ただけで雄の蚊か、雌の蚊かを見分けられる奴もいるようだが、少なくとも、今の私には到底真似出来ぬような離れ業なのだ。
しかし、そんな事を考えている暇は無いのだ。原稿を終わらせなければならないという焦燥感に駆られているからだ。
なのにこの二疋の蚊が私に全く容赦をしてくれない。
拙い。このままでは終らない。いや、ある意味としては一種の終りなのかもしれないが。
そう言えばこの夢、一体何が終りなのだろうか。 以前見た雪山での夢は、『本当の恐怖』を知る事で終りを迎えたのだが、今日の夢は一体?原稿をこの二疋の蚊に邪魔される事無く書き終えるのが終りなのか。はたまた、この二疋の蚊を退治したならば終りなのか。
だが私は、原稿の事もあるので、そこで私は考えるのを止めた。
あれからも未だ、二疋の蚊による猛攻が終る事は無かった。
何時まで私に付き纏うつもりだ。好い加減、他の人間の所へ向ったらどうなんだ。
それに此奴等、何時までも、何時までも私に付き纏う癖に、一向に私の血を吸う気配が無い。すると、もしかするならば、この蚊共は二疋共、雄の蚊なのかもしれない。
駄目だ。この煩わしい二疋の蚊の所為で原稿が一向に進む気配が無い。
やはり退治すべきか。私は静かに目を閉じて、精神を統一させた。只、只管集中した。
そしてぷうん、ぷうんという二つの羽音が真正面から丁度聴こえた時、私はかっと目を見開いて、正面で手を叩いた。
しかし、既に二疋の蚊は何処かへ消えてしまったようだった。何処へ行ったのだろうか。先までぷうん、ぷうんと飛んでいた癖に、私が退治しようものならば、急に姿を消してしまう。全く、臆病な奴らだ。
肩を透かした私は、再び原稿に向き直って、筆を進めていった。
するとどうだろう。身体中を謎の痒みが襲ってきたのだ。痒い。痒い。痒い。痒みが止まらない。
左手の甲が特に恐ろしく痒かったので、左手の方に目を向けると、ぱんぱんに腫れ上がっていた。それも人差し指のみが。
それを見た私は酷く驚いた。
確かにあの時、蚊が・・・・・・いや、一度だけ、私が奴らを全く視認していなかった瞬間があった。あの、精神を統一しようと目を閉じた。・・・・・・あの瞬間なら有り得る。
そして頭も何だかくらくらする。
ふと、左手の甲が私の視界に入ると、そこは全く腫れていなかった。少しばかり掻いたので、ほんの少し紅くなっただけで、全く腫れていなかった。
頭がくらくらした瞬間だ。・・・頭がくらくら・・・・・・まさか私は!
「はっ!」
気が付くと、私は自分の家の床の上で寝ていたようだった。
夢から醒めたのだ。
まさかあの夢が、私が薬物中毒になり、幻覚を体験するものだったとは。
しかしこの今日の夢で、『蚊』という、現実世界になら何処にでも、幾らでも居そうな虫が見えるという幻覚が、他の中毒者共が良く見るらしい、分かり易い虚実の幻覚よりも空恐ろしい事が明らかとなった。
ふと、左手の甲の方が痒くなった。まさかと思って目を向けると、そこは酷く紅く、ぱんぱんに腫れ上がっていたのだ。
私は一度、恐ろしくなって震え上がったが、直ぐに 『あれは夢だったのだ』と自らを宥め、再び床についた。
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