絵魔師のアトリエ/プロローグ

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絵魔師のアトリエ/プロローグ

 アラームの音に、脱ぎ捨てるパジャマ。  一週間の回し着ワイシャツと踵の高い靴。  コンクリート。車の音。足音。改札口からアナウンスに通勤ラッシュ。  流行歌は耳にタコ。上司の溜息はビル風と変わらない。  どれだけキャリアウーマンともてはやされていても、疲れは溜まるものだと後輩に優しく微笑めいても、自分に微笑むことなんて出来なくて――まぁ、結局のところその笑顔は全て偽物だったりするのだけれど。 「そう、とにかく私は疲れてる・・・・・・」  黒色の無難な鞄を肩に掛け、ゆっくりと歩く。  会社からの定時帰宅。これが当たり前だと言ったら世の中の社畜と呼ばれ、かつそう自身を呼んでいる人には怒られてしまうだろうけれど、定時帰宅の何が悪い。むしろ褒められるべきだろう。これが正しい形なのだから。  けれどその分、昼休憩を削って仕事をしているのだ。朝から詰め込めるだけ詰め込んで、一分一秒も無駄に出来ないスケジュール。それは全て定時帰宅の為だが、正直これならば残業をした方が楽なような気がするのは気のせいか。  けれど今更それら全てをやめて『昼休憩取ります! 残業して一日のスケジュールに余裕を持たせます!』なんて言えるだろうか。いや、きっと言えない。言ったとしても認められないだろう。なぜなら普通は残業してはいけないことになっているのだから。 『今まで残業せずにやってきただろう?』と言われたらそれまでなのである。 「なんでこんなことになってるだろう私・・・・・・」  仕事が出来ないよりマシ? 仕事がないよりマシ? ふざけんなよ、そんな綺麗事で片付けられるほどの余裕はもう残ってないんだよ。  コツン、コツンとヒールがコンクリートを叩く。  昔はこの音が好きだった。ワイシャツも、パンツも黒い鞄も、格好いい。背筋が伸びる。大人の証拠。そんな風に思って胸をときめかせていたのはいつまでだっただろうか。  今では聞き慣れた音と、代わり映えしない服装に成り果て、社会人としての剣だった筈なのに、今では古びて守ることも出来ない盾と化している。  会社に行けば流石にしっかりと歩くけれど、会社も終わった帰り道ではもう心も身体もボロボロ。のろのろとした歩調はまるで杖をつくご老人の音にも負ける速さではないかと思えるほどだ。 「っていうか、私はどこに向かおうとしてるのかな?」  ハハハと軽く笑い、辺りを見渡す。ここは廃れたアーケード街だった。  もう今日は帰宅ラッシュに耐えられる気がせず、適当に時間を潰そうと思い、歩き続けた末、いつの間にかたどり着いていた場所である。  夕陽も沈みきったというのに明かりは古い電灯で、オレンジ色に淡い光を灯らせている。  人影も開いている店もない。まるで本当に捨てられた街みたいだ。  喫茶店でもあれば入っただろうけれど、このまま進んでも何もなさそうで私は歩みを止める。 「・・・・・・・・・・・・」  周りを見渡し、明かりの灯らない店やシャッターが下りている姿を見て、それから自分の足下に視線を落とした。  喧噪から離れたこの場所は嫌いじゃない。私は自嘲するように口元に弧を描きながら息を吐く。  もう帰ろう――――そう思い顔を上げる。すると視界の端に電灯とは違う光が映った。 「ん?」  ゆっくりとそちらへ顔を動かせば、濃い茶色の樹で出来たドアに、レンガの壁。まるで絵本から出てきたような家のようなそれが向こう側にあった。  なんだろうあそこ、と私は首を小さく傾けて歩いて行く。  近づけば近づくほど、そこだけ異質な雰囲気がある。  両隣は潰れた店なのに、明かりが灯るそこは可愛い山小屋のようなもの。  なんの店なのか、看板のようなものはないか探すとドアの横、上の方に樹の棒が出ていて、また同じような樹に白いペンキで『絵魔師のアトリエ』と書かれているのを見つけた。 「え、まし? の、アトリエ?」  声に出して読んでみれば、一瞬フワリと湿った何かが通り抜けたような感覚がした。  私はポニーテールを揺らして振り返るけれど、そこには何もない。あるのは目の前の店、『絵魔師のアトリエ』だけである。  アトリエというのだから、絵を売っている店なのだろうきっと。  そういうものに興味がないわけではないけれど、こういうそれ専門という店に入ったことはない。敷居が高いというのもあるし、そのまま何も買わずに出て行くのも申し訳ないからだ。  私は左右を見て、またアトリエを見る。  普通ならきっと私はこのまま来た道を戻って、電車に乗って帰るだろう。けれどなぜか今の私はそうしようという思いはひとつも沸かなかった。  どうしてなのか分からない。でもきっと疲れているからだと思う。 「・・・・・・・・・・・・」  ひとつ深呼吸をしてみれば水のような湿った匂い。けれど絵の具の匂いは一切しない。 (なんだろう、すごく不思議)  私はゆっくりとドアに手を伸ばす。金色のドアノブは少しだけ曇っているけれど、その方がこのドアには似合っている。  気になるというよりも、導かれているという感覚の方が正しいかもしれない。  疲れているから。自暴自棄になっている。気晴らし。気まぐれ。なんとなく。理由や言い訳は沢山思いつくけれど、やはりそういうのではなくて。 「・・・・・・失礼しマース」  自分の家が当たり前にあるように、このアトリエに入るのが当たり前のような感覚がするのだ。
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