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~ * ~
――――カランコロン。
響いた音に、顔を上げた。
ドアの前に立つ裕造に、栞凪は笑みを浮かべて駆け寄った。
つい先ほども家に一緒にいたというのに、互いに全くの別人に感じるから不思議なものだ。
「お待ちしておりました」
杖を持つ、もう片方の手を取る。そして中央の椅子へとゆっくり導いていく。
他の客となんら変わらない。テーブルには布を被せた絵があり、それに微笑を浮かべながら裕造は腰掛けた。
「楽しみじゃな」
言の音を心配する声ではなく、これから具現化するそれを楽しみにする言葉。それにどこか寂しさを覚えつつも、栞凪はそれを表情に出さずに布をそっと引っ張った。
「ご注文の瑠璃色、虹色、蒲公英色です」
美しい海の絵に、裕造は息を呑むように目を見開いた。
「手に取っても大丈夫ですよ」
遠回しに見えるかどうかを聞けば、「大丈夫じゃ」と答える。
「輪郭はぼやけていても、色はまだ見える」
見つめるその瞳はどこか子供のように生き生きとしていて、それでもどこか哀愁が漂っていると感じるのは、この絵を描いたから分かるのだろうか。
「これから言の音を唱え、こちらの絵を具現化させます」
栞凪は静かに告げる。
「準備はいいですか?」
真っ直ぐ裕造を見つめて問えば、裕造は一度深呼吸をしてから「うむ」と頷いた。
「お願いします」
その言葉に今度は栞凪が深く息を吸い、吐き出す。
準備はいいかなんて、それは自分に聞いたようなものだ。
(大丈夫)
絵魔師として、やり遂げてみせる。
『瑠璃色は思い出』
テーブルに置いてあるキャンバスから、瑠璃色がドライアイスのもくもくとした白い煙のように流れ出す。
まるで床が海と化し、その上に立っているかのような錯覚を覚えた。
『色あせることなく残る過去。遠いむかし、それは未来と呼ばれていたもの』
ゆらゆらと瑠璃色の海が揺れ、店の明かりに輝く。その海の中に、若い男女の後ろ姿が映り込んだ。
「・・・・・・・・・・・・」
それが裕造に見えているのか分からないが、腰をかがめて手を伸ばす。けれど触れた瞬間、波紋を広げてその二人は消えてしまった。
『胸の奥の灯火。それが導きとなり、次の未来を歩んでは過去へと流れゆく』
瑠璃色の波が流れ、店の奥へと引いていく。けれど次には新たな色を連れて、また床を満たした。
『虹色は愛おしさ』
瑠璃色に、虹色。グラデーションのように揺れるそれを栞凪は両手で掬う。それを裕造の顔の前に差し出せば、そこにはまた若い二人の顔が映った。
瑠璃色が裕造と祖母ならば、この二人は彼らの娘たちだろう。
『温かさが溢れ、こぼれ落ちていく愛は思い出と一つとなり、鮮やかに彩らせる』
両手をゆっくりと離せば、言の音と同じように掬った色の海が裕造の目の前のテーブルにこぼれ落ちる。
――――お父さん。
凪の声がその流れと共に聞こえ、小さな声で裕造は娘の名前を呼んだ。
すると流れていたそれが淡い光を帯び、シャボン玉みたいに宙へと浮き上がる。だがその色は瑠璃色でも虹色でもなく。
『蒲公英色』
黄色い灯火。飛び立つそれは蒲公英の綿毛のようで、一体どこへ向かうのだろう。
『それは未来へと続く希望の光』
ザァと波が音を立てて引き、先ほどと同じように蒲公英色を仲間に加え、床を流れる。
瑠璃色を奥へ、虹色は真ん中に、そして蒲公英色を先頭に引いては満ちていくのを繰り返す。
飛び立つ灯火を見つめていた裕造がその海へ視線を落とした瞬間、描いていた時に感じた痛みが胸を締め付ける。するとそれに呼応するかのように波が荒くなってきた。
『混ざり合う色。時間。心。全てを生み出すそれは母なる海となり、人生の物語として刻まれる』
荒い波がぶつかり合い、滴が跳ねる。瞬間、また床から天井に向かって風が吹いた。
蒲公英色だけではなく瑠璃色や虹色、そしてそれらが混ざって別の色も生まれ、色鮮やかな滴が裕造と栞凪を包み込みながら天へと昇っていく。
――――いらっしゃいませ。
まるで様々な色のシャボン玉のような滴の中に、裕造の声が聞こえた。
――――お好きな色をお選びください。
――――描く絵は、貴方の心なんですよ。
それは、彼が絵魔師として、この店に立っていた時の〝記憶〟だ。
(きれい・・・・・・)
様々な色は裕造が具現化してきた客の心なのだろう。まるで宝石みたいな美しさに、栞凪は魅入られる。
――――絵魔師は、貴方と同じ気持ちを一緒に感じることが出来る。どんな心でも、色でも、それを見させていただけることを、心から感謝します。
ふと、裕造の顔を見れば、その瞳が滴たちの色に染まり、虹色に輝いて見えた。それに栞凪は口を開き、涙が溢れた。
(虹色の、瞳)
代々受け継がれてきたその名前の本当の意味は、ブローチに宿されていたのではないのかもしれない。
沢山の心の色を見ることの出来る絵魔師が持つその瞳こそが、虹色の瞳という名を持つ。
これが彩璃裕造の最後の、虹色の瞳と呼ばれた絵魔師の色だ。
(心が壊れそうなほど痛いのに、温かいなんて・・・・・・そんな優しさは寂しいだけなのに)
忘れることも出来ず、叫ぶことも出来ず、これから絵魔師として生み出すことも出来ない。
それでも裕造の絵は、生命を生み出す海だった。
『流れる過去、満ち溢れる愛おしさ、それを導く波の名は』
吹き上がっていた風が静かにやみ、滴がまた海として穏やかに揺れる。
それでもまだ輝く裕造の瞳を見ながら、栞凪は唇を噛みしめた。
(泣くな。泣くな泣くな泣くなっ!)
何度も呼吸を繰り返し、最後のタイトルを口にしようとしても、なかなか声が出ない。
それでも、ちゃんと送り出さなくちゃ。
栞凪は胸のブローチを片手で握りしめ、目を閉じる。
だって私が貴方の、
『――――消えぬ思い出を乗せた希望』
希望になるから。
「悔しさの中にある温かい未来への希望の色を見せてくださり、ありがとうございました」
床に浸透するように海は消え、真っ白だったキャンバスはその消えた海を湧き水のように溢れ、描いた絵に収まった。
ゆっくりと裕造の瞳が元に戻っていく。
「・・・・・・綺麗な色じゃった」
優しい声で切なく言う裕造に、栞凪は再び唇を噛みしめながらまた拳を強く握った。
涙がボロボロとこぼれ落ち、何て言葉にしたらいいのか分からない。
もっと美しく描けた筈だ。言の音で具現化させるそれだって、裕造の強さや優しさ、そして悔しさを表現したかった。
こんなんじゃない。こんなんじゃまだまだ足りない。
「どうしてべっこう飴を作り始めたか、お前は覚えとるか」
突然の話題に、栞凪はいつの間にか俯いていた顔を上げて裕造を見た。
「ただなんとなく、絵魔師として頑張るお前に作った飴だった」
上手く描けないと言う孫はまだ小さくて、まだ本物の絵の具を使ってスケッチブックに絵を描く練習をしているくらい、まだまだのひよっこ絵魔師。
「色の名前もよく分からないお前がその飴を見て、蒲公英色みたいと笑った」
全然似てないじゃろと言ったのに、いいのと孫は頬を膨らませ、唇を尖らせた。
――――おひさまはね、みんなをげんきにするの。たんぽぽっておひさまにもにてるでしょ?
『おじいちゃんのべっこうあめはね、かんなをげんきにするから、たんぽぽいろでいーの!』
「なんとも適当なもんじゃと苦笑したのに、わしはどうやらそれがすごく嬉しかったらしい」
だから何かあればべっこう飴を作って、少しでも元気になりますようにと祈った。
「お前が客の幸せを願うようにな」
裕造は海の絵を撫で、笑う。そして、泣く栞凪の目元を撫でて言った。
「随分立派になったもんじゃ」
「そんな、こと、ないっ!」
栞凪はその裕造の腕をそっと握り、「ごめんっ」と謝った。
「おじいちゃんにもっともっと素敵な色を、絵を見せたかったっ! 私はあんなにも綺麗な色を見せてもらったのに!」
「栞凪」
「未熟でごめん、それでも私のことを希望だと思ってくれてっ、嬉しいっ。でもっ、ごめんねっ・・・・・・!」
「栞凪」
低い声、深い声音で呼ばれ、栞凪は言葉を止める。
涙を拭うように目元を撫でながら、裕造は真っ直ぐこちらを見ながら言った。
「お前はもう気付いた筈じゃ」
もう片方の手で、栞凪のブローチを指さした。
「虹色の瞳という名が、このブローチのことではないことに」
「・・・・・・・・・・・・っ」
師匠の言葉に、栞凪は頷いた。
「そのブローチはただのブローチじゃ」
どこか笑うように裕造は言い、「お前が勘違いしたのは凪のせいじゃな」と、今度は呆れるように溜息をついた。
「このブローチの輝きが絵魔師の瞳に見えるから、これを虹色の瞳と呼んだんじゃ。すぐに指摘しなかったのは、まぁそれがお前のモチベーションにもなってたからの」
そう言ってから少しの沈黙を挟み、「のう栞凪」と裕造は訊ねる。
「お前さんは絵魔師が絵を描くとき、どんな瞳の色をしているか知っておるか?」
それに栞凪は首を振った。
「そうじゃな。お前はいつだってわしや凪がアトリエで絵を描くとき、邪魔せぬよう後ろから見ていた」
その言葉に、確かにアトリエで思い出すのは二人の後ろ姿で、師匠に教えてもらっている時だって隣から伸びた指を見つめていた。
「絵魔師はな、その二つ名の通り、絵を心を描いているときや言の音を唱えているとき、その瞳が虹色に輝くんじゃよ」
溢れる心の色を、その瞳に宿す。
「ブローチが輝かないのは当たり前じゃ。凪が付けていた頃から何年も時が経っておるんじゃ。あの頃と同じ輝きになるわけがなかろう」
裕造はクツクツと笑い、そしてまた栞凪の目元を撫でた。
「わしはもう上手く世界が見えぬが、お前のその瞳の色はしっかり見える」
立派になった、と言った声は震え、その目には涙がきらめいた。
「綺麗な、虹色じゃ」
栞凪の瞳がゆらりと、先ほどの色のように波打つ。
それは綺麗な様々な色――――心を宿す瞳として輝き、美しく瞬いていた。
絵魔師としての心の在り方を理解したという証拠であり、そして全てを背負う覚悟が出来た証。
受け継がれてきたこの二つ名の由来は、客が絵魔師のことをそう例えたからであった。
「よう受け継いだな」
「ずっ、と、おじいちゃんが、教えて、くれたから」
目元を撫でる手に甘えるように顔を擦り寄せ、泣きながらも笑みを零した。
「お母さんと、お父さんが死んじゃっても、おじいちゃんが、傍にいてくれた」
辛かったよ。厳しかったよ。それでも楽しかったし、嬉しかったよ。
「ありがとう、おじいちゃん」
そう言い、手を離す。そして一歩下がり、深く頭を下げた。
「長い間、ありがとうございました。師匠」
「こちらこそ」
裕造はそっと栞凪の頭の上に手を乗せ、涙声で「よく頑張った」と褒める。
「最後までわしにようついてきた」
凪と祐輔さんが亡くなって辛かっただろうけれど負けなかった娘を。
立派な虹色の瞳になったお前を。
「誇りに思うぞ」
「~~~~っ、おじいちゃんっ・・・・・・!」
顔を上げ、栞凪は裕造に強く抱きついた。それを裕造も強く抱きしめ返す。
「ずっとずっと、私の中でおじいちゃんはっ、ずっと! 最高の絵魔師だよっ!」
「ありがとう、栞凪」
トントンと優しく背中を叩き、言った。
「この店を、頼んだぞ」
それが、栞凪が聞いた裕造の最後の言葉だった。
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