絵魔師のアトリエ/プロローグ

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――――カラン、コロン。  ドアを引くと、ベルがついていたようで澄んだ音が響いた。  店の中も樹の壁、床で、中央には大きめなテーブルとイスが数個あるだけの、アトリエとは思えないシンプルさ。 (絵が、ひとつもない)  イメージでしかないけれど、こういう店ならば一枚くらい絵が飾ってあってもおかしくないのではないだろうか。いや、むしろ飾ってあるのが普通な気がする。  アトリエとはただの店の名前であって、実は全然違う店なのかもしれない。では何の店なのだろう。  壁に丸く輝く数個の電球が店内を淡い黄色で照らしているが、他に何かある様子でもない。あるとすればイスの上に分厚く 大きな本のようなものか。  さてこれからどうしようと思っていると、店の奥にあるもう一枚のドアの向こうからパタパタと足音が響く。そしてそれが開けば「遅くなってごめんなさい!」と、少女のような高い声と共に、女の子の姿が向こうから現れた。  フワリとしたレースがついた白い服に、若草色の緩いサルエルパンツ。髪の毛は綺麗に顎の辺りで切りそろえられていて、前髪は短めだ。 「ようこそ、絵魔師のアトリエへ!」  容姿よりも幼い声でその女の子は笑う。  柔らかさよりも、太陽が似合う笑顔。一緒にいる人を元気にさせるような感じだ。 「あの、すみません。私、ここがどういうお店なのかも分からず入ってしまって・・・・・・」  肩に掛かる鞄をかけ直しながら言うと、女の子は「大丈夫ですよー」と私のところまで軽い足取りでやってくる。 「ここはそういう店なんです」 「そういう、店?」 「はい」  彼女はニッコリと笑うけれど、私はよく分からず首を傾げてしまう。しかしそれにも慣れっこだとばかりに「私は栞凪(かんな」と、自身の胸元に手のひらを当てた。 「彩璃 栞凪(いろどり かんな)です」  その手のひらの隣には、雫の形をした小さなブローチがついていた。  オパールか何かで出来ているのだろうか。彼女――栞凪が動くたびに色が違って見える。 「あ、私は笹川 華弥(ささがわ かや)と申します」 「そんなかしこまらないでください。のんびーりしましょう」  栞凪は中央にあるイスを引いて、私を誘う。今更躊躇しても遅いだろうと、足を動かし引いてくれたイスに腰を下ろした。すると彼女は分厚い本をテーブルの上に置いて、そのイスに座る。 「華弥さん、改めまして絵魔師のアトリエへようこそ」  幼い声ながらも、落ち着いた声音と太陽のような笑顔に、いつの間にか緊張していた身体を緩ませてくれた。 「あの、ここはどういうお店なんですか?」  先ほどよりも柔らかい声音で問えば、彼女はテーブルに両手を置いて答える。 「ここは他のお店と同じように、絵を描いてお渡しする場所です」 「絵を売っているお店、ということですか?」 「うーん、ここは他のお店とはちょっと違ったお店なんです」  説明に困ったように苦笑した。 「きっと他のお店ではすでに描いてある絵を売っていたり、こんな絵を描いて欲しいと注文したりするんだと思うんですけど、ここでは“色”を選んでもらって、私たちがそれに合せて絵を描かせていただくんです」 「色を、選ぶ?」 「はい!」  私の疑問に、栞凪は嬉しそうに頷き、先ほど置いた分厚い本を開いた。 「こちらから好きな色をお選びしていただきます」 「わぁぁ・・・・・・!」  ぺらりと開かれたページには、透明のような白色、または銀色のような用紙にまるで絵の具をチューブから出して指でのばしたようなものが綺麗に並んでいた。  けれどそれは、黄色、赤、青、というような感じではなく、まさにグラデーションのように、黄色でも少しずつ色が変化しているのが並んでいて、だんだんとページを進むごとにやっとオレンジ色、それから赤色へと変化し、紫へと続いていく。  もしかしたらこの世界に存在する全ての色が載っているのではないだろうか。それならばこんなに分厚い理由も頷ける。 「この中から選ぶんですか?」 「はい。お好きな色をお選びください」 「この中、から」 「はい!」  ニコニコと元気よく返事をされたけれど、私はうーんと困ってしまう。  こんなにも分厚く、沢山の色があるのだ。全部見ていては明日になってしまうのではないだろうか。  色に名前がついていればまだしも、そういう表記は一切ない。本当に好きか、嫌いかで判断しなければいけないだろう。 「うーん」  時間がないわけではないけれど、だからといえど丁寧にじっくり見ているわけにもいかない。  私はパラパラと捲りながら、なんとなく目を通す程度に進めていけば、ふと青色が広がるページで捲る手が止まった。 「この色・・・・・・」  なんとなく気になった色を指させば、栞凪は迷いもなくその色の名前を言う。 「こちらは濃藍(こいあい)色ですね」 「こい、あい・・・・・・」  私からしたら紺色のようにしか見えないけれど、正式名称は濃藍というらしい。  周りにある青色と比べたら暗い色に見えるそれをじっと見つめていると、彼女は次の順序を告げるように言った。 「では華弥さん、その色に触れていただいてもいいですか?」 「えっ、これ触っても大丈夫なんですか?」 「はい。あ、色が指につく心配はないですので!」 「いや、指紋とか・・・・・・私の指というより、この色の方が汚れちゃうんじゃないですか?」 「そんなことありませんよ」  不安げに言う私に、やはり栞凪は笑みを絶やさずに言う。 「たとえば色を混ぜて混ぜて混ぜたら、最終的に黒色になってしまうと思いますが、それは別に汚れた色じゃありません」  彼女の言葉に、私はなんとなく小学生の頃にやった図画工作の時、絵の具を使った筆を洗った水の色を思い出す。  様々な色を溶かした水は濃い茶色や黒、紫などに変化し、私からしたら汚れた水だと思っていた。 「その混ざった後の色にも、ちゃんとした名前があるんです」  あの時の水の色も、もしかしたらこの本に載っているのだろうか。 「では改めて・・・・・・濃藍色に触れてください」 「は、い」  私はおそるおそる伸ばした人差し指を、濃藍色に触れる。  冷たくも温かくもない、本当にただ紙に触れただけの感覚。だが触れた瞬間、風が全身を撫でたような気がした。 「え?」  風なんていつだって吹いているし、何度も浴びている。  それは自然の風もあれば、電車がホームに入ってきた時の風。車や扇風機、エアコンの風など多種多様に存在する。  だが、今の風はそういうものではなく、いや、そういうものなのだけれど、これはたしか、どこかで――――そう思うも、私はこの風をどこで浴びたのか思い出せない。 「では濃藍色で絵を描かせていただきますので、一週間後、またこちらにいらしてください」  パタンと閉じた栞凪は立ち上がり、一礼して言った。 「濃藍色のご注文、承りました」
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