絵魔師のアトリエ/プロローグ

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――――一週間後。  私は仕事終わり、あの時の店へと向かった。  真っ直ぐ向かう足は少し重く、仕事の疲れが身体にのしかかっている。  絵を貰ったら湯船に浸かって足のマッサージでもしよう。そんなことを思いながら「こんばんは~・・・・・・・」と絵魔師のアトリエという名前の店のドアを開けた。  店内は一週間前と変わらない。だが中央のテーブルには何かが置かれ、布を被せられていた。 「あ、こんばんは華弥さん」  私のことを待っていたのだろう。すぐに店の奥のドアが開く。けれどやって来たのは栞凪だけではなく、もうひとり。 「こんばんは華弥さん。この度はよくこの店に来てくださった」  コン、と杖をつくおじいさんが顔を覗かせた。  皺の深い顔に、低くしゃがれた声。杖をついているわりに背筋は真っ直ぐで、どちらかというと工事現場で指揮を執っているような人だ。 「私のおじいちゃんで、師匠なんです」  栞凪は笑顔で紹介する。  師匠ということは、彼女に絵を教えた人ということか。  私は小さくお辞儀をすると、「そうかしこまらんでいい」と言う。しかしそこに笑顔があるわけではなく、やはりどこか頑固さがあるような人だと思った。 「ほらおじいちゃん、ここに座って」  一週間前は彼女が座っていた椅子を引くと、おじいさんはしかめっ面でその椅子にゆっくり座った。 「ごめんなさい。私一人でも大丈夫だって言ったんだけど、おじいちゃんが心配だからって」  栞凪は苦笑しながら言う。  心配とはどういうことか。もう出来上がった絵を渡すだけだろうに。もしかしたら私が出来た絵に文句をつけたら困ると思っているのだろうか。 (そんなことしないのに)  私は胸の中でムッとしたけれど、それを顔に出すヘマはしない。しかしまるで全てを察したかのように栞凪は苦笑したまま続けた。 「私はまだ半人前で、絵を渡すときの〝言の音(ことのね)〟を心配しているんです」 「言の音?」  聞いたことのない単語に素直に眉を寄せれば、ようやく彼女は笑顔で頷いた。 「絵魔師の特権のものです」  では、とテーブルに置いてあった物の布を掴んだ。そしてふわりとそれを取れば―――― 「ご注文の濃藍色です」 「わぁ・・・・・・」  そこに紺色、否、濃藍色で描かれた夜空が広がっていた。  小さく輝く星は淡い白のような色で、絵に詳しくない私はどういう技法なのか分からないけれど、奥や手前で光っているような錯覚を覚える。  描かれているキャンバスのそれに額縁はついておらず、けれどだからこそそのまま夜空の中に吸い込まれそうだ。 「凄く綺麗・・・・・・」 「これは華弥さんの心の色です」 「え?」  柔らかい口調で言われ、視線を栞凪に向ける。けれど彼女は夜空の絵を見つめたまま言う。 「心の奥に大切にしまっていたもの。だからこそ、忘れてしまっていたものです」  そっとその絵を両手で持つ。けれどそれをこちらに向けるのではなく、天井に向けたまま肩ぐらいの高さまで持ち上げた。 「濃藍色は夜空」  そしてそれは始まった―――― 『天の名を持ち、けれど終わりの無い果て。どこまでも広がり、形なきもの』  ふわりと夜空であった濃藍色が煙のように持ち上がる。それに驚きの声も上げることが出来ず、ただただ魅入った。 『光を宿し、人々を導く星を抱く』  次に金平糖のような光がキャンパスから持ち上がり、紺藍色の夜空と遊ぶようにくるくると回る。  プラネタリウムで見ただろうか。いや違う。この夜空は、この星々は。 『時の流れ、超えた先から届く光、溢れた星のかけら。それらを統べる川の名は』  舞っていた星がパンと弾け、細かい光となる。するとそれが川のように流れ、先ほどの絵には無かったソレになる。 『――――天の川』  ソレを見た瞬間、風が吹き、声が聞こえた。  お父さーん、早く早くーっ!  お前懐中電灯より早く行ってどうするんだ  大丈夫っ! お星様とお月様が導いてくれるから! 「あ・・・・・・」  そうだ。この夜空は、夢で見たあの草むらは、私の故郷で見たあの星だ。  お父さんが懐中電灯を持って連れて行ってくれた、あの山の近く。  電車なんてない、バスだって半日に何本かあるほどの田舎。何もないそこにあったのは、満天の星空と、天の川。  いいか華弥、疲れたら空を見上げなさい。空はな、どこにいても同じ空なんだ。もし華弥が一人暮らしすることになって、仕事をすることになって、疲れた時は空を見上げて、疲れた気持ちを吐き出しなさい。  そこではお月様もお星様も、天の川も見えないかもしれない。それでも同じ空の下にはお父さんとお母さんがいるからな。 「お父さん・・・・・・」  涙が溢れる。  そのとき私は、一人暮らしなんて単語、あまりにも縁が無くて首を傾げて笑っていた。そんな未来が来るわけがないとまで思っていた。  けれど実際どうだろう。  都会に憧れ、田舎が嫌いになって、大学生になる時にはあっさり故郷から出て行った。  それから何年が経っただろうか。まだ一度も故郷に帰っていない。  忘れていたずっと。大切なものだったのに。思い出ですらなくなって、きっとこの空の下で私は迷子になっていた。  私は小さく唇を噛みしめ、ぽろぽろと零れる涙をそのままに夜空を見つめた。  ごめんね、という気持ちと、ありがとうという感謝。  大きく鼻から息を吸えば、湿ったあの懐かしい匂いがして口元が勝手に弧を描く。  しばらく夜空として宙を漂っていたそれらはゆっくりとキャンバスへと戻り、栞凪もそっとテーブルの上に戻す。  先ほどは無かった天の川が星々を揺らしながら流れている姿が描かれていた。 「これが、貴方の濃藍色です」  そう栞凪は小さく微笑みながら言った。  私はその絵を見つめながらズッと鼻をすすり、手のひらで流れた涙を拭った。 「貴方たちは、一体何者なんですか?」  涙声になりながら私は聞く。  今となっては普通の絵にしか見えないけれど、先ほどの時間はまるで魔法のような、そんな幻想的なものを見た。  あれはマジシャンとかそういう類いではないだろう。  すると栞凪ではなく、椅子に座ったままのおじいさんが口を開いた。 「わしらは絵魔師」  ゆったりと言ったその名前はこの店と同じもの。 「客が選ぶ色にはな、必ず何かが宿っておる」  その人自身の気持ち。思い出。感情。興味。関心。魂。 「それらは人それぞれで、絵魔師はそれを描く。そして言の音を唱えて、具現化させる」  言の音とは、あの透き通った声で、まるでビー玉が転がるような感じに唱えていたものか。 「魔法みたいな時間でした」  ぽつりと零れるように言えば、「はっはっ」とおじいさんは笑い、その顔を優しくしわ深くした。 「ちょっと不思議な絵描き屋さんじゃ」  そんなことない。私は小さく首を横に振ったけれど、言葉は口から出てこなかった。  これ以上の言葉は必要ない。そんな気がしたのだ。  私は改めて絵を見つめ、微笑んだ。 「この絵、大切にしますね」  そう言うと、私よりも嬉しそうに絵魔師は微笑み、 「こちらこそ、幸せな色をありがとうございました」  深く頭を下げた。
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