泣いているから生きているんだ

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俺は授業中に泣き出した。間に合わなかったからというか、諦めたというか、とにかくそういう理由で。 一応言っておくが、俺が陣取っているのは最後列の隅である。『日本近代文学概説』などという退屈極まりない授業で、おいおいと泣く男子大学生なんて、どう考えても異常だからだ。きちんと周囲の目を気にした結果、このポジションに落ち着いたのである。 授業の中盤、周りを見回せば、横のやつとこそこそ話したり、関係のない授業の予習をしている学生ばかりだった。まあ後ろだからな。 ふふん、と内心鼻で笑っていた俺だが、今現在は涙が止まらない。皆様と同じ、眠たい・だるいが口癖の今どきの学生ですよ、という雰囲気のマントを自分に被せ、さりげなく突っ伏す。 あと少しだ、と目の水分を振り絞る。終わった。薄目を空けると、配布プリントがグレーに滲んでいた。それを確認し、俺は伏したままシャツの袖で頬と目尻をぐいぐいと擦る。そして、仕方がないな聞いてやるか、という面持ちでふらりと顔を上げた。 教壇では、黒いTシャツにジーパン、黒い眼鏡、そして黒髪という出で立ちの教師が快活に何か話しているが、周囲の声で聴取困難である。大企業の社長のプレゼンみたいだな、とド近眼の俺は雰囲気のみでそういう感想を抱いた。 泣いた後は、鼻の奥がツンとする。俺の場合正確にいうと、鼻梁の中腹辺りが、じゅんじゅん、となる。「鳴る」ではなく「なる」。テレビの砂嵐のように。限界まで出汁を吸った大根のように。 鼻水。かむのが面倒なので全部すすって飲み込んだ。つまり細菌を飲み下しているのだから体に悪いのでは、という恐怖感はあることにはある。ただ、それを抱きつつこの行為に興じるという背徳感がたまらないのだ。 昼前ということもあり、腹が減る。授業が終わればカレーを食うぞ、と手元のプリントに書いてみる。涙の横に謎の文言。俺が今死ねば、これがダイイングメッセージになるのか、と無駄な想像をしてみる。しかし想像力に乏しいきらいがある俺は、ああ腹が減ったなぁ、と阿呆みたく欠伸をするに終わった。涙が出る。 そうこうしていると昼だ。食堂で、群衆に揉まれながらやっとのことでカレーを注文する。冬野菜カレー。夏野菜は聞いたことがあるが、冬は初耳、初食いである。なけなしの好奇心でつい選んでしまったが、何のことはない。人参、大根、ジャガイモ、終わり。掬えど食えど、目新しい具はない。玉ねぎを、どうか玉ねぎの甘みをくれ、と俺は黙って天を仰いだ。カレーに玉ねぎは不文律だろ。 文句を垂れつつ完食する。辛口だったようで、水も大量に摂取することとなった。三限も授業が入っているため、早めにトイレに行かなければならない。俺は返却口に食器を返し、食堂の出口付近のトイレに入った。 小便器は無人だった。安堵し、そそくさと個室に籠る。食堂のトイレは他と比べても清潔に保たれており、照明も明るく、トイレットペーパーが切れている確率も低い。案の定今回も太く巻かれていて、日頃の行いよ、性善説よ、と一人にやつく。 そうして便器に座りながら俺は泣いた。安心して泣いた。自分でも驚くほど出る。はらはら、から始まった涙は、調子づいてくると滂沱となる。嗚咽は出ないため別に構わないのだが、それにしてもなぁ。水を飲みすぎたのかもしれない。それか、カレーで胃と腸が刺激されたかのどちらかだ。 ここまで読んでくださった皆様に告白しよう。俺は、便と小便の代わりに涙が出る。汚い話だ。いや逆に、便と小便と忌み嫌っている人にとっては夢のような話かもしれない。あら、あの臭いナントカの代わりに涙が?素晴らしいわそれこそ本当のファンタジーだわ、と垂涎するかもしれない。 しかし残念なことに、俺はしがない男子大学生に過ぎない。背中に羽が生えているわけでも、異世界に転生しているわけでも、周囲に規格外の美少女がいるわけでもない。よって、これは全くもって要らない体質である。否、たとえ今述べた状況に俺がいたとしても不要だ。 長所を挙げるとすれば、最悪その場で漏らしても、顔を隠す手段を調達できればバレないこと。あとは、臭くなくていいね、便所を汚さなくてエコだね、ぐらいのもんである。しかも、全人類ならまだしも、こんな体質なのは俺だけ。のはず。地球に貢献できるほどの力ではない。 本当に、男に生まれてよかったとつくづく感じる。もし女子に生まれ、あまつさえ「トイレに一人で行けない病」に罹患している女子などとつるんでしまえば、面倒この上なかっただろう。一緒にトイレに入った際に、放尿音がしないとさすがに怪しまれるはずだ。大便なのか、もしや友人関係の崩壊を恐れて無理やり来てくれたのか、とあらぬ想像をされるかもしれない。校内一の才女あるいは夢想家であっても、涙とは思うまい。思うわけがない。あの音を隠す機械があればそれで誤魔化せるが、無い時は一巻の終わりだったろうな、と要らぬ想像にぞっとなる。 とにかく現世の俺は男子であり、今まで友人を誤魔化し、不本意な言葉で茶化され、それをも上手くいなしながらここまで生き抜いてきたのである。結構たくましいんじゃないかなオレ、とたまに自画自賛することもあった。そして、他人を妬むこともあった。汚い汚いと騒ぎながらも、なぜか嬉しそうにその話をする。便と小便とはそういうものだ。そうした会話は小学校低学年にピークを迎えるのだろうが、その輪に入れない辛さ・気まずさは今でも鮮明に覚えている。しかし今はもう、懐古するべきものとしての記憶にすぎない。 そうした思い出とともに、ぽたぽた、と俺のズボンに涙が落ちる。大でも小でも、涙の量的・質的感覚はさして変わらない。しいて言えば、大の時の方が涙の粒が大きい気がする(気がするだけで、あまり真に受けないでほしい)。しかし、きちんと腹はすっきりする。世間の「どっさり出た!」がどういうものか俺には想像もつかないが、俺の場合は、腹の下あたりに空洞ができたような、大規模トンネルが田舎に開通したような、爽快な気分になる。 事を終えた俺は、必要最小限のトイレットペーパーをちぎり、顔に当てる。あんまり擦るんじゃないよ、と口うるさい母親の声が脳内に響いた。 家族だけは俺の体質を知っている。いくら催してもひたすら泣き続ける子を不審に思う母親に対し、自意識の芽生えと同時に、俺はそれこそ涙ながらに訴えた。最初は半信半疑だった母親も、浣腸・下剤のオンパレードに全く屈しない俺を渋々認め、「そういう体質」として観念したようだった。精神科に連れて行かなかったのは、俺に対するせめてもの信用の表明なのかもしれない。 しかし、俺が世に言う「下痢」を初めて経験した日、おてんば赤ちゃんや思春期真っ盛りの高校生男子も真っ青になるほどのティッシュを抜き取る俺を見て、さすがの母親も吠えた。 勿体ないからタオルで拭け、そして擦るな、腫れるでしょうが‼ 当時中学生の俺は、下痢で大量の涙を流しながら、涙には鼻水が付随するのだと主張した。当然の生理現象を持ち出し、タオルが汚れますよ、と相手の被害を強調したのだ。しかし、それなら風呂に入って手鼻で済ませなさい、という非情な返事が台所から飛んできただけだった。便という形ではないにせよ何かが詰まっている感覚はあるし、腹は死ぬほど痛い。母さんが作ったカキフライにあたったのに、という恨みを胸に、俺は悶絶しながら風呂で耐えた。 そんなわけで大学生になった俺は、涙を一日6,7回流しながら生を全うしている。もちろん、便、小便に含まれる老廃物はいずこに、と訝しく思う日もある。ずっと蓄積したままなのかという健康不安。時間を過ぎても爆発しない、時限爆弾を抱えているような心細さ。しかしそれが頭に浮かぶと鬱々とし、鼻水の飲み込みを超える罪悪感に苛まれることになる。だから適度に意識しつつ、定められた寿命まで生きるつもりだ。 せめて、棲み処に気ままに立ち寄られ、日毎摘まれる花、撃たれる雉たちに涙の雨を降らしてやるのだ。なんちゃって。
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