苦手なコーヒー

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苦手なコーヒー

 僕はコーヒーが得意じゃない。  けど、コーヒーが好物の彼に合わせて、今日も苦手なブラックコーヒーを注文した。 「大学の方はどう?」  スーツ姿の彼が僕に訊く。時刻は午後八時を回ったところで、駅の近くのこのカフェは空いている時間帯だ。僕たちは一番奥のテーブルで、こっそり内緒話をするみたいにテーブルの上で互いの指を絡めた。 「もう卒論の雰囲気。まだ卒業までに一年以上もあるのに」 「そういうのは、早めに用意しないといけないからね」 「本ばっかり読んで、逆に頭が馬鹿になりそう」  僕の言葉に、彼は微笑んだ。そして、カップのコーヒーをひとくち飲む。 「忙しいのに、こう……呼び出してごめんね。どうしても、顔が見たくて」 「あ……平気! 僕は大丈夫だから!」 「心配だな」 「本当に、気にしないで。その……僕も、会いたかったから」  成人式が終わってから二週間後に入ったバーで、僕は彼と出会った。彼は見るからに年上で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。ああ、素敵な人だなって思っていたら、目が合って、微笑まれて、気が付いたら口説かれていて、何回かデートした後で恋人になった。  彼はとっても優しくて、頼りがいがあって、大人で――僕とは正反対の人。趣味とかそういう話は合うけど、食べ物の趣味が合わない。けど、子供っぽいと思われるのが恥ずかしいから、僕は彼に嘘を吐いて、良く分からない名前の料理を「美味しい」って言って喜んだふりをしている。今日だってそう。本当は、キャラメル味のクリームたっぷりのやつが飲みたかったんだ。  僕はコーヒーに口をつけた。 「……」  苦い。  けど、そんなこと言ったら「やっぱり子供だ」って思われてしまう。そうしたら、彼はきっと僕から離れてしまう。それは……嫌だ。 「ね、ちょっと良いかな」 「何?」 「将来の話がしたい」  えっ。  いきなりそんな……僕は姿勢を正した。彼は絡めた指に力を入れて口を開く。 「卒業したら、一緒に住もう。それは前にも話したね」 「うん」 「その時にね、君には何の無理もして欲しく無いんだ」 「……どういう意味?」 「たとえば、そう……」  彼は目を細める。 「無理に、俺に合わせて辛い物を食べる必要は無い」 「……え?」 「この前に行った中華。口に合わなかったんじゃないか?」 「っ!」  何で、そんなこと知って……!?  思わず僕はテーブルの上の手を引っ込めた。彼は優しい口調でさらに言う。 「その前のディナーも無理矢理付き合わせてしまったね」 「ま、待って。僕は、別に……」 「察しが悪くてすまない。これからは、君に合わせたいんだ」  ばくばくと心臓が鳴る。どういうこと? 僕、今までそんなこと一度も言ってないのに!  ぞっと背筋が冷たくなった。どうしよう。全部、バレている。どうしよう。嫌われる……!  動揺して彼から目を逸らした僕に、彼は落ち着いたトーンで続けた。 「ごめんね。顔に書いてあったから」 「か、顔……」 「どうしても、伝えておきたかった。今日も、そのコーヒー苦手なのに俺に合わせてくれているんだろう? でも、もう良いよ。好きなものを口にする、好きな人の表情を見たいんだ」 「あ……」  その時、初めて僕は自分が馬鹿なことをしていたんだなと悟った。  この人は、食べ物くらいで僕を嫌いになるような人じゃない。そんなことにもっと早く気が付いていれば良かったんだ……。 「……うっ」  思わず涙が零れた。  自分の愚かさに。彼の優しさに。  僕の涙を親指で拭った彼が微笑む。 「次のデートは何が食べたい?」 「……」 「教えて欲しい。君のことは全部知っていたい」  震える声で僕は言った。 「……ハンバーグが食べたい。チーズが乗ってるやつ」 「ふふ。了解」 「ごめんなさい。僕は、舌が子供だから」 「そんなことない。そういうところが可愛くて好きなんだ」  僕の肩を撫でながら、彼は「口直しに別のものを飲もう」と提案した。僕は、飲みたかったキャラメル味のドリンクの名前を言う。すると、彼もそれを注文すると言って笑った。僕は慌てて彼に言う。 「甘いの、苦手なんじゃ……?」 「良いんだ。好きな人の好きなものを共有したいという気持ちに嘘は無いよね」  何でも良い風にとらえてくれる、彼の優しさが好きだ。僕が照れ隠しに俯くと、彼は僕の頭を撫でてくれた。  それから、運ばれてきたドリンクを二人で飲んだ。あまりの甘さに、彼の頬が引きつる。ああ、僕もこうやって顔に出ていたのかな。  「甘いね」って笑い合った。もうその頃には涙は引き、僕たちの間にはいつもの穏やかな空気が流れていたのだった。
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