30人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
苦手なコーヒー
僕はコーヒーが得意じゃない。
けど、コーヒーが好物の彼に合わせて、今日も苦手なブラックコーヒーを注文した。
「大学の方はどう?」
スーツ姿の彼が僕に訊く。時刻は午後八時を回ったところで、駅の近くのこのカフェは空いている時間帯だ。僕たちは一番奥のテーブルで、こっそり内緒話をするみたいにテーブルの上で互いの指を絡めた。
「もう卒論の雰囲気。まだ卒業までに一年以上もあるのに」
「そういうのは、早めに用意しないといけないからね」
「本ばっかり読んで、逆に頭が馬鹿になりそう」
僕の言葉に、彼は微笑んだ。そして、カップのコーヒーをひとくち飲む。
「忙しいのに、こう……呼び出してごめんね。どうしても、顔が見たくて」
「あ……平気! 僕は大丈夫だから!」
「心配だな」
「本当に、気にしないで。その……僕も、会いたかったから」
成人式が終わってから二週間後に入ったバーで、僕は彼と出会った。彼は見るからに年上で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。ああ、素敵な人だなって思っていたら、目が合って、微笑まれて、気が付いたら口説かれていて、何回かデートした後で恋人になった。
彼はとっても優しくて、頼りがいがあって、大人で――僕とは正反対の人。趣味とかそういう話は合うけど、食べ物の趣味が合わない。けど、子供っぽいと思われるのが恥ずかしいから、僕は彼に嘘を吐いて、良く分からない名前の料理を「美味しい」って言って喜んだふりをしている。今日だってそう。本当は、キャラメル味のクリームたっぷりのやつが飲みたかったんだ。
僕はコーヒーに口をつけた。
「……」
苦い。
けど、そんなこと言ったら「やっぱり子供だ」って思われてしまう。そうしたら、彼はきっと僕から離れてしまう。それは……嫌だ。
「ね、ちょっと良いかな」
「何?」
「将来の話がしたい」
えっ。
いきなりそんな……僕は姿勢を正した。彼は絡めた指に力を入れて口を開く。
「卒業したら、一緒に住もう。それは前にも話したね」
「うん」
「その時にね、君には何の無理もして欲しく無いんだ」
「……どういう意味?」
「たとえば、そう……」
彼は目を細める。
「無理に、俺に合わせて辛い物を食べる必要は無い」
「……え?」
「この前に行った中華。口に合わなかったんじゃないか?」
「っ!」
何で、そんなこと知って……!?
思わず僕はテーブルの上の手を引っ込めた。彼は優しい口調でさらに言う。
「その前のディナーも無理矢理付き合わせてしまったね」
「ま、待って。僕は、別に……」
「察しが悪くてすまない。これからは、君に合わせたいんだ」
ばくばくと心臓が鳴る。どういうこと? 僕、今までそんなこと一度も言ってないのに!
ぞっと背筋が冷たくなった。どうしよう。全部、バレている。どうしよう。嫌われる……!
動揺して彼から目を逸らした僕に、彼は落ち着いたトーンで続けた。
「ごめんね。顔に書いてあったから」
「か、顔……」
「どうしても、伝えておきたかった。今日も、そのコーヒー苦手なのに俺に合わせてくれているんだろう? でも、もう良いよ。好きなものを口にする、好きな人の表情を見たいんだ」
「あ……」
その時、初めて僕は自分が馬鹿なことをしていたんだなと悟った。
この人は、食べ物くらいで僕を嫌いになるような人じゃない。そんなことにもっと早く気が付いていれば良かったんだ……。
「……うっ」
思わず涙が零れた。
自分の愚かさに。彼の優しさに。
僕の涙を親指で拭った彼が微笑む。
「次のデートは何が食べたい?」
「……」
「教えて欲しい。君のことは全部知っていたい」
震える声で僕は言った。
「……ハンバーグが食べたい。チーズが乗ってるやつ」
「ふふ。了解」
「ごめんなさい。僕は、舌が子供だから」
「そんなことない。そういうところが可愛くて好きなんだ」
僕の肩を撫でながら、彼は「口直しに別のものを飲もう」と提案した。僕は、飲みたかったキャラメル味のドリンクの名前を言う。すると、彼もそれを注文すると言って笑った。僕は慌てて彼に言う。
「甘いの、苦手なんじゃ……?」
「良いんだ。好きな人の好きなものを共有したいという気持ちに嘘は無いよね」
何でも良い風にとらえてくれる、彼の優しさが好きだ。僕が照れ隠しに俯くと、彼は僕の頭を撫でてくれた。
それから、運ばれてきたドリンクを二人で飲んだ。あまりの甘さに、彼の頬が引きつる。ああ、僕もこうやって顔に出ていたのかな。
「甘いね」って笑い合った。もうその頃には涙は引き、僕たちの間にはいつもの穏やかな空気が流れていたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!