0人が本棚に入れています
本棚に追加
空が白んできたころ、雄太はようやく自宅へたどり着いた。体は疲弊しきっていて、まぶたが重く、足取りもおぼつかない。スーツも脱がずにベッドへ倒れこむ。
ちらりと時計を確認すると、短針が5を指している。眠れても、あと3時間だろう。
薄れゆく意識の中でさえ、仕事のことを考えていた。いくら自分を消耗させても、やらなければならないこと、考えなければならないことは、際限なく湧いて出てくる。システムエンジニアが激務だとは聞いていたが、まさかこれほどだとは思っていなかった。かすかな後悔と、疲労。それ以外のものをほとんど感じない日々の中、雄太は眼を閉じ思考を停止させた。
思い出すのは、キッチンに立つ玲奈の姿。
黒い髪を後ろで束ねて、緑と白のギンガムチェックのエプロンを着ている。
お玉でスープをすくい、味見をして一人でうなずいている。
「雄太、できたよ」
僕はその声を合図に玲奈特製の肉じゃがをお椀によそい、食卓へ並べる。その日は二人が初めて一緒に暮らし始めた日だった。
「どうかな?」
肉じゃがを口に運ぶ僕を見ながら、おそるおそるといった様子で玲奈が尋ねる。
「おいしいよ」
僕はそう答えながら、自分の顔が笑って見えるように口角を上げた。心から笑っていたわけではない。このときの僕の心はすでに何も感じなくなっていたのだから。
通勤するとき、雄太は映画館の前を通る。シアターが一つしかない、古くて小さな映画館で、就職する前は頻繁に通っていた。知らないタイトルのポスターが貼ってある窓ガラスの隙間に自分のやつれた顔が映っている。
あれだけ好きだった映画も、もう1年以上見ていない。これから先もずっとこの生活が続くのだろうか……。
『感情は心の栄養です』
会社の前のデパートの電子公告から、最近流行りの感情サプリ「ココロ」のCMが流れている。
『笑うこと、泣くことが無くなっていませんか?感情を動かさない生活はストレスをためて、仕事の能率も下げてしまいます。ココロは1日1錠、好きな時間に飲むだけであなたに足りない感情を補います』
ハート型のマスコットキャラクターが画面内をあわただしく動き回りながら喋りかけてくる。
感情サプリなんて、疲れてさみしい生活を送っている中年が飲むものだと思っていた。しかし、最近はこのCMが自分のために流れているように感じていた。
思い出すのは、薄暗い水槽の前でのこと。他愛もない会話だが、玲奈はずっと笑っていて。
水族館に行きたいと言い出したのは玲奈の方で、僕たちは手をつないで回っていた。玲奈の容姿はとても目を引くようで、すれ違った後に振り替える人もいる。
玲奈は僕を笑わせようと、何度も冗談を言い、そのたびに僕は笑顔を作る。
僕はそのとき焦りを感じていた。感情を感じなくなりつつある自分に。
「あなたは、いつも笑ってくれるけど、本当には笑ってないみたい」
薄暗い大きな水槽の前に腰かけているとき、玲奈はぽつりとそういった。
「私が、心から笑えるようにしてあげるね」
玲奈はそう言って、ゆっくりと顔を近づけてくる。
深夜のオフィスはげっそりとした社員たちであふれかえっている。パソコンの前に何時間も座っているが、作業は全く進んでいない。
雄太はあたりを見回し、誰もこちらを見ていないことを確認して、出社の途中につい買ってしまった感情サプリ「ココロ」を取り出した。
ココロには3種類の錠剤があった。黄色は「喜び」青色は「涙」赤色は「怒り」。
雄太はそのうちの黄色の錠剤を手に取り、まじまじと見つめる。説明書に書いてある効能が正しいのであれば、これを飲めばすぐにとても楽しい気分になるはずだ。
半信半疑ではあったが、気分転換になるものなら何でもよかった。
雄太は意を決して錠剤をのみこむ。
しかし、しばらくしても何も起こらない。
首をかしげて、説明書をもう一度読もうとしたときに変化は現れた。
気分が高揚し、大声で歌いだしたい気分になる。
これは、楽しい。
雄太は笑いだしたくなるのをこらえながら、つかの間の感情を楽しんだ。
思い出すのは、あの葬式からの帰り道。
いつもと違って、玲奈の足取りには力がなく、僕はその2,3歩後ろをゆっくりとついていく。深夜の人気のない住宅街に二人の足音だけが響く。
ふと、玲奈の足が止まる。
視線の先にあるのは、時代の流れに追いつくことをあきらめたようなさびれた駄菓子屋。当然、この時間に開いているはずもないが、玲奈は入口へ近づいてしゃがみ込む。
そこには色あせたガチャが3台ほど置いてあった。
玲奈はハンドバックをあさって、そこから財布を取り出す。100円玉がかちゃりと音を立てて吸い込まれる。さび付いているのか耳障りな音を立てながら、玲奈はハンドル回した。
吐き出されたガチャのカプセルを手に取って、玲奈はぽつりと喋りだす。
「このキャラクターが好きだったの」
玲奈はゆっくりと立ち上がる。
「小さいころ、このフィギュアが欲しくて、ガチャを見つける度に、お父さんにねだっていた」
玲奈は歩き出す。街灯に照らされる肌が青白い。
「お父さんは最初絶対に渋るのだけど、それでも私は聞かなくて、最後は困った顔で『お母さんには内緒だぞ』って言って、私に100円を渡すの」
玲奈の足が再び止まる。水滴がはじける音がして、アスファルトにしみをつくる。
「もう会えないのね」
僕は後ろからやさしく玲奈を抱きしめる。玲奈の体温が伝わってくるが僕の心は冷たいままだ。
泣きじゃくっている玲奈を僕は全く理解できない。エイリアンとのファーストコンタクトも、きっとこんな感じだろう。
「これ、昨日に仕上げておいたので、あとから確認しておいてください」
雄太は課長の前に書類の山を積み上げた。
課長はあぜんとした様子で、口をぽかんと開けている。返事を待たずに、課長に背を向け、雄太はオフィスから立ち去った。それと同時に昼休みのチャイムが鳴りだす。
気分は最高だった。あの薬を飲み始めてから、不安感が無くなり、頭脳が明晰になっていくことが実感された。仕事も異様にはかどるようになっていた。
雄太が去ったのを見届けると、同僚の二人が噂話を始める。
「篠原も変わったな。前は昼休みも返上して働かないと仕事をさばけなかったのに、今じゃ定時に帰ってやがる」
「ああ」
「何かあったのかな」
同僚の一人は何か言いたげな表情で黙り込む。
「なんだよ、何か言いたいならはっきり言えよ」
「見たんだ」
「何を?」
決心したように、誰にも言うなよとくぎを刺し、声を潜めながら話し始める。
「このあいだ、西棟の屋上に篠原がいたんだ。声をかけようとしたとき、あいつがカラフルな錠剤を何錠も手のひらに乗せているのが見えた。それを一息に飲み込んだ後、あいつ、嗚咽を始めて、かと思ったらすぐに笑い出して、そして最後には手すりを蹴りながら怒り出したんだ。絶対に、違法なやつだよ、あれ」
拍手の嵐に包まれて、旧友が祝福されている。
ウェディングドレスを着た花嫁も幸せそうな表情を浮かべている。
雄太は腕時計を眺めながら、秒針の進む遅さにため息をついた。
「なあ、これ何時まであるんだっけ」
同じテーブルに座っていた春樹に声をかける。
「えっと、どうだろ、これはあと2時間くらいじゃないか?」
「そうか」
「でも二次会入れたらもっとかかるな」
「あー、二次会ね……」
「来ないのか?何か用事があるとか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「なあ、お前、今日ちょっと変だぞ。時計ばかり見ているし。太田とはお前が一番仲良かったのに、ずっと無表情のままだ」
「すまん」
「お前、ココロを飲んでるだろ」
「え。なんでわかるんだ?」
「俺の友達にも飲んでいる奴がいる。そいつみたいな目をしてたからだよ。おまえ、一日何錠飲んでる?」
「それは……」
「書いてあるはずだ。一日一錠。それを絶対に守れと」
「ああ。でも、どんどん効果が薄れている気がして……。それに、増やしても特に変化はなかったし、大丈夫かなって」
「変化なら、あるよ」
「お前、薬を飲まないと、感情が動かなくなっているだろ」
その日、家に帰って雄太は慌てて映画を見た。
3本目の映画を見終えたとき、雄太は愕然とした。
春樹の指摘は正しかった。
見たら必ず涙を流してしまう映画だったはずなのに、今や何も感じない。
感情が、完全に失われてしまっている。
なんとかしなければ。
思い出すのは、玲奈と初めて出会った時のこと。
あの時、僕は友人から誘われた合コンにいた。
会話があまりにも退屈で、トイレに行くと嘘をついて、僕は店の外に出て煙草を吸っていた。
このまま、帰ってしまおうか。
しかし、そういうわけにもいかない。
合コンに来たのには理由があった。
彼女を作って、恋愛をする。そうすることで感情を取り戻すことができるはずだ。
「なにしてるんですか?」
いきなり声をかけられて、驚いて後ろを振り返る。
さっきまで同じテーブルに座っていた女性だ。
名前は、確か玲奈。
「店を出ていくのを見ちゃって、ついてきてしまいました。退屈でしたか?」
僕は慌てて取り繕う。
「いや、そんなことないよ」
「嘘。ずっと作ったような笑顔でしたよ」
僕の作り笑顔を見抜いた人は初めてだった。
この子と一緒に過ごせば、感情を取り戻せるのではないだろうか――?
淡い期待が胸の内に広がる。
「二人でどこかへ行かないですか?」
玲奈は少し驚いたような顔をして、それからこくりと頷いた。
僕は玲奈に失望していた。
いや、玲奈にというより、玲奈と過ごすことで感情を取り戻せると考えた僕の甘さにだ。
玲奈とどれだけ過ごそうとも、僕の感情が戻ってくることはなかった。
しかし、それでも僕にはまだ最後の作戦があった。
彼女を作るなどよりも、もっと刺激的で感情を揺さぶる体験をする必要があったのだ。
そう、例えば殺人とか。
今玲奈の首にはビニール紐の輪が巻き付いている。玲奈は寝息を立てていて、気づく様子は全くない。
僕は両腕に力を込める。
玲奈は眼を見開いて僕を見る。
驚き、焦り、そして絶望の色が浮かんでいる。
じたばたと抵抗をするが、男の僕が馬乗りになっているのに、かなうはずもない。
そして玲奈は動かなくなった。
その瞬間だった。
僕の頬を一筋の涙が伝っていった。
玲奈と過ごしてきた時間がフラッシュバックして思い出される――。
初めて一緒に暮らした日、水族館、葬式の帰り道、最初に会った合コン。
激しい後悔の渦が襲ってくる。
今、僕は完全に感情を取り戻していた。
玲奈の死体を抱きしめて、むせび泣く。
感情の代償はあまりにも大きかった。
最初のコメントを投稿しよう!