帰郷

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帰郷

「松田先生も来たのかよ」 「すげえだろ」 「元気だったか」 「超絶元気。まだ現役だってよ」 「そうかあ」  伊坂から返されたスマホには、俺と嫁さんの後ろで赤い顔をした先生の写真。学年主任をしていた松田先生は生徒指導をしていたこともあり、少々やんちゃだった俺たちにとっては担任よりも関わりが多かった。特に伊坂は卒業前に衝突して停学を食らうほどだったが、今でも年賀状のやり取りがあるらしい。俺も就職の時には散々世話になっていて、結婚式に招待するぐらいには付き合いがある。  定年して今は非常勤講師になっているが、携帯の小さな画面では収まらないくらい元気だ。 「お前のことも気にしてたぞ。すげえ酔っ払って、あいつはちゃんとやってんのかって」 「やってるって年賀状に書いたっつの。めんどくせえジジイだな」 「多分嫌がられてるぜ生徒に。うるせえジジイだって」  だろうなあと伊坂は笑ったが、そこには俺と同様に親しみが込められている。久しぶりに会った高校時代の友人たちも、それぞれに老けていたり苗字が変わったりしていて、俺たちは大人になったんだなあと実感した。  結婚式を終えてひと月、親戚への挨拶とか新婚旅行とかようやく落ち着いたのもあって、地元の酒とつまみを土産に式に出席できなかった伊坂のところに来ていた。 「それにしても、上田が結婚するなんてな」 「なんだよ」 「実感わかねえなと思って」 「うっせえわ」 「しかももれなくオヤジになるんだろ」  それについては自分でも実感がわいていないというのが正直なところだった。  付き合っている女から子供ができた、と聞いた時、一番に思ったことは「しまった」だった。三十になって親からはさっさと結婚しろと言われていたが、まだまだその気は無かったし、嫁だってそんなつもりはなかったと思う。なんとも無責任な話ではあるが、つまり誰かの人生を背負うだけの度胸がまだなかったのだ。 「こういう時って女の方が度胸があるんだよな」 「ああそう?」 「あんたが無理でも私は産むからって言われてさ。すでにこいつの中では俺より子供が一番になってんだなって」  なんだよ、と思う気持ちがなかったわけじゃないが、俺にとっちゃまだ見ぬ自分の子供よりも目の前の女の方が大事で、だったらこの女が大事なものは俺が守らなきゃいけないんだろうなと、結婚を決めた。 「女は急に母親になるけど男は追っかけて父親になるんだって、仕事の先輩が言ってたぞ」 「それはあるな」  少しずつ大きくなり始めた腹を撫でる嫁の顔はなかなかに母親らしい。肩を出した服を着なくなったり、ヒールを履かなくなったり、いつの間に母親になる準備をしていたんだろうと俺は置いてきぼりの気分だ。  手持ち無沙汰に何も入っていないポケットを探っていると、それに気がついた伊坂がタバコを吸う真似をした。 「やめたのか」 「ああ、それなあ」 「子供ができるんならやめたほうがいいだろ」 「嫁にもすげえ言われんだけどさ……きついわ。今3ヶ月目」 「続いてんなら偉いじゃん」 「もう心折れそうだっつの。お前どうやってやめたんだよ」  コンビニとか自販機とか通りかかるたびにうっかり買いそうになる。実際、誘惑に負けて自販機の前で財布を出したが幸いにもというべきか、小銭が足りなくて買わなかったというのがつい数日前の話だ。お金さえあれば、というかなりの綱渡り状態だ。  学生の頃から吸い始めて今では立派な中毒だ。元々嫁も喫煙者だったが、当然なのだけれどすっぱりやめている。 「俺はツレがな。嫌がったから死ぬ気で止めた」 「ああ」  それ以上聞くべきかどうか悩んであやふやに返した。次の言葉を探しているうちに伊坂が先に口を開いた。 「みんな元気だったか」 「おう。サキとか今三人目が腹にいるってのにでかい腹で来てたし」 「あいつらしいな」 「今井も親父さんの会社継ぐために頑張ってるってさ」 「そうかあ」  懐かしそうに目を細めた伊坂に罪悪感が過る。一体何人の同級生たちに伊坂はどうしたと聞かれたことか。そのたびに俺は都合が悪かったらしいと嘘をついた。 「他にも色々来てて」 「坂口は?」  俺は今度こそ言葉に詰まって黙ってしまった。そんな俺を見て伊坂が笑う。 「別に嫌味で聞いたわけじゃねえよ?」 「……分かってる。あいつも半年ぐらい前に結婚して、今は忙しそうにやってる」 「仕事続けてんの」 「外回りばっかだって嘆いてた」  坂口は口から先に生まれたようなやつで、高校時代もムードメーカーだったからある意味じゃ営業マンは向いてると思う。高校時代も俺たちは同じクラスで、毎日のように馬鹿騒ぎをしていた。高校を卒業してからも集まってはいたが、伊坂が大学を卒業し就職した頃に飲んだのが三人では最後だった。 「まあ元気でやってんならいいよ」  俺は、持っていたビールの缶をテーブルに置くと、勢いよく頭を下げた。伊坂が嫌な顔をする。 「だからいいってそういうのは。ほんとにそういう意味で言ったんじゃないから」 「いや、本当ならお前だってあの場に来るはずだったんだ。みんな、お前に会いたがってた。あのバカがなんと言おうが俺はお前を呼ぶつもりだった」  もう7年ほど前になる。伊坂の就職祝いと称して大量のアルコールとつまみを買い込んで、当時一人暮らしだった俺の部屋で飲み会をした。仕事の愚痴から始まって、やがて話題は女の話に移った。振られたばかりの坂口が俺の付き合っている女にケチをつけてひとしきり笑った後、伊坂が話したのは付き合っている相手が同性だということだった。 「あいつが嫌だっていうなら俺は行けねえよ。そういうイベントには欠かせないやつだろ、あいつは」  困ったように笑う顔はあの頃にはしなかったもので、あの日の伊坂は坂口に拒絶されて硬い表情で口を閉ざしていた。そして気の利かない俺は伊坂が何も言わずに部屋を出て行くのを黙って見ているだけだった。  俺たちはみんなまだまだ青臭いガキで、お互いの感情をぶつけるしか方法を知らなかった。高校の頃から付き合っていたのに話してくれなかったというのも、今思えば一因だったのかもしれない。何かが違っていたら、今でも年に何度かは酒を飲むような、そんな関係のままでいられただろうか。 「俺は、あの日のことも後悔してんだよ。お前がお前のツレの話をしたのは俺たちを信用してのことだったろ?」  それだって、どれだけの勇気がいることだっただろう。坂口は同性と付き合っている伊坂を拒絶して、俺は何も言えずに黙った。坂口も、結果的には俺もその信頼を裏切った。 「それはまあ、そうだけど。仕方がないのも分かってんだよ。そういう反応は今までもあったし、全員に受け入れられるとは思ってないしな。生理的な拒否感なんてどうしようもないから。キツくないかって言われたらあれだけど」  空のビール缶を手の中でいじりながら伊坂はふざけたように言った。酒に弱い伊坂はそれほど飲んではいない。それでもアルコール類が常備されているのは多分、ここを頻繁に訪れる誰かの分なのだ。端々に誰かの存在が感じられるこの部屋で、伊坂は生活している。なぜそれを拒絶できる? 「そりゃそうだろ。当たり前だ。面と向かって拒絶されたら辛いだろ。坂口の態度はひどかった」  気持ち悪い、と切って捨ててあとはもう聞く耳を持たなかった。あれは友人として取るべき態度ではなかった。受け入れられなかったとしてもあんな態度は取るべきじゃなかった。けれど。 「けどさ、俺だって同じなんだよ。別に気持ち悪いとは思わないけどちょっと、引いたし。しかもあの時俺は坂口にもお前にも何も言わなかった」  坂口を諌めることも、伊坂を引き止めることもできなかった卑怯者だ。いつもは忘れているけど時々、本当に時々思い出して罪悪感に駆られた。それでも連絡を取るのは面倒で、日常に押されて流された。 「だからすまん」  もう一回頭を下げた俺に、伊坂が「お前はさ」と言った。 「昔はそんなふうに謝れるやつじゃなかったのになあ」 「そうか?」 「大人になったな」 「うるせ」  伊坂がおかしそうに笑った。バカばっかりやっていた高校時代を思い出させる、そんな顔だった。 「そんなのはいいからさ、今度そっち帰った時に嫁さん紹介してくれよ」 「おう。あいつイケメン好きだからきっとお前のことも気にいるよ」  惚れられたらどうしよ、とふざける伊坂をそんなわけあるかと小突いた。 「盆には帰るつもりだから」 「実家にか」 「いや、うちには帰らない」  伊坂は少しだけ口調を変えて切り捨てるように言った。  伊坂が地元を離れた頃、俺たちはほとんど会わなくなっていた。あの一件もあったし、単純にお互いの仕事が忙しかったのもある。家を出ると話していたのが最後で、それ以降のことは何があったのかよく知らない。  ただその口調から実家とはうまくいっていないことだけはわかった。 「ツレが実家に帰るから、一緒に」 「へえ」 「いつも泊めてもらってるんだ」  伊坂の恋人のこともほとんど知らない。クラスが変わってからの友人とは付き合いがないし、そもそも付き合ってるなんて思いもよらなかった。どういう経緯で付き合うことになったのか、そんなことすら知らない。 「あっちの家は、その、認めてくれてんのか」 「こっちに来る時にふたりで挨拶に行った」 「緊張しただろ」 「そりゃもう。……本当はさ、挨拶に行く前に別れ話になったんだ。俺の家のことをあいつが気にして。でも俺は絶対に別れるつもりはなかったから、ちゃんとしたかったんだ」 「そうか」 「あっちの家は、帰ればいつも普通に迎え入れてくれて。本当に感謝してもしきれねえよ」 「……よかったな」  きっと大変なことはたくさんあるんだろう。実家に帰れない伊坂にとって、向こうに受け入れてくれる場所があるのはどれだけ心強いだろうか。 「今度帰って来る時はさ」 「うん?」 「連れてこいよお前の相方も」  だったらその一つになれりゃいい。償いじゃなく、友人の一人として。 「……おう、わかった」  明日は日曜日で、夕方の電車で帰る。それまではゆっくりできるから今日は遅くまで飲みあかそう。じっくりとツレの話を聞くのもいい。そんで酒に弱い伊坂を潰して、その横で眠る。そんな昔みたいな無茶をするために、俺は伊坂のグラスになみなみとビールを注いだ。
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