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秘密
「私と……付き合わないか」
曇り一つない窓ガラスの外は、まるで暗い海のような夜の街が広がっている。ガラスに映った自分は驚いた顔をしていた。
「君が、好きなんだ」
「上野先生、私は」
「先生はやめてくれ。今は、ただの男なんだ、森見君」
笑うと少し眉が下がって、優しい顔になる。普段は生徒に厳しいと言われているその眼差しが、一心に俺を見ていた。
ここしばらくずっと悩んでいた俺は、以前からいろいろと相談に乗ってくれていた上野先生に食事に誘われて、気晴らしにと出かけることにした。一日に数組の予約客しか入れないというそのイタリアンの店は敷居が高すぎることなく、しかしモダンな雰囲気で、センスの良さを感じさせた。
次の期末試験の話をしながら、上野先生のおすすめという赤ワインで乾杯をして、運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
「本当においしいです」
「そうだろう。なかなかの穴場なんだ」
「箸が使えるのもありがたいですね」
「マナーにもうるさくないしな」
都心を少し離れた小高い山にある店からは、夜の街並みが一望できた。空の星を落としたような光が、煌めいている。時々ウェイターが料理を運んでくる以外は他の客の気配もなく、喧騒を離れたこの場所に二人きりで残されたような錯覚を覚える。
「あまり人には教えたくない店だろう?」
「そうですね」
「森見君だから連れてきたんだよ」
そう言って上野先生はワインに口を付ける。社会科の担当で剣道部の顧問もしているだけあって、背筋の伸びた姿勢がきれいだった。年齢は自分より一回りほど上の三十後半で、年相応に落ち着いている彼は的確な相づちをくれるので相談しやすかった。
「私なんかに教えてよかったんですか」
「もちろん。教えるというよりは、私が連れてきたかったんだよ」
「この店に?」
「きれいな夜景だろう」
テーブルの周り以外は照明が落とされているから、うっすらと自分が映りこんでいても夜景がきれいに見えた。
「ここなら君を落とせるかと思って」
穏やかな声が、俺の耳を打った。
「私と……付き合わないか。君が、好きなんだ」
上野先生は真面目で、生徒からも堅物だと思われている。実際、普段から冗談も言わない真面目な性格で、しかし非常に明晰な人だ。だからこそこれが真剣な話をしているのだとわかった。
「上野先生、私は」
「先生はやめてくれ。今は、ただの男なんだ、森見君」
「上野……さん」
そういうと、上野先生は目を細めて笑った。
「私には恋人がいて……」
「知っている。前に聞いた」
「だから」
「そこに私の付け入る隙はないかな」
意外な言葉に目を瞠ると、上野先生はいたずらそうに笑った。
「前に言っていただろう。悩んでいると」
少し、前のことだ。
偶然にも伊坂がお兄さんと電話で話しているところに居合わせたことがあった。その口調は荒れていて、例え聞き取れなかったとしても、いい話ではないことはわかったと思う。まして言葉を拾えていたのだからなおのこと。
「俺は、森見と別れるつもりはない」
それははっきりと聞こえた。それならば家とは縁を切る、と言ったのも。それが悲しかったのも、反面、嬉しかったのも事実でそのときは寝たふりをした。
「俺はお前が好きなんだ……」
電話を切ったあと、寝ていると思っている俺に落とした伊坂の言葉に、何を言っていいのかわからなかった。
「彼のために別れようと考えているんだろう」
「……はい」
別れの言葉は考えている途中で、まだまとまっていなかった。もう少し考えてから、を繰り返しては延ばし延ばしになっている。
「まだ、言えていないです」
「私は、いくらでも待つつもりでいるよ」
「待たないで下さい」
「なぜ?」
だってまだ俺は、
「あいつが好きだから」
別れの言葉を先延ばしにしているのだって、結局はまだ伊坂のことが好きだからで。
「他の誰かと付き合って、忘れるという手もある」
「……あるかもしれません」
「そうだろう?」
「でも私にはできません」
だってこうして別の誰かといる間もずっと伊坂は頭の隅にいて。あいつならこんなお洒落な店には連れて来ないだろう、あいつはワインなんか飲んだらすぐに引っ繰り返るだろう、あいつはこの味が好きかもしれない、声はこんなに低くない、手はもう少し大きい、このジャケットはあいつにも似合いそう、なんて。
少しも俺の中からいなくなってはくれない。
「確かに、別れようと考えています。でも俺は」
きっとまだずっとあいつのことを好きだと思うから。
「まだ他の誰かと付き合うことなんてできません」
なんの表情もなく俺を見ていた上野先生は、俺が話し終えるのを待っていたかのようにつめていた息をふっと吐いた。
「どうにも分が悪いな」
「すみません」
「どうやら君の気持ちの整理に一役買ってしまったみたいだ」
眉の下がった顔で俺を見る。
「君が本当に決めてしまうまで待てばよかったな」
少し焦りすぎたようだ、と苦笑した。
部屋の入り口にかかっているビロードのカーテンの向こうから声がかかって、正装したウェイターが料理を運んできた。
「ここの肉料理は本当においしいんだ」
冷めないうちに、とすすめられて俺はナイフを取る。口の中に入れたそれは柔らかく解けていった。
ウェイターが下がってしばらく沈黙が続く。やがて口を開いたのは上野先生だった。
「待つといっても君は聞かないんだろうな」
「すみません」
そこは謝るところではないな、と言われて俺はもう一度すみませんと繰り返した。
「謝らないでくれ悲しいから」
「私には大切な人がいます。もしかしたら別れることになるかもしれないけれど。本当に、大切なんです。今はあいつのことしか考えられません」
「……そうか」
残念だな、とても。
それは俺に言ったというよりは一人ごとのように、呟いた。
「ただいま」
玄関の鍵が開いていたから声をかけて入る。連絡なしにくるのは珍しい。すでに時間は午後十時を回っていた。
リビングに入るとこたつから足が出ているのが見えて、そっと覗くと伊坂が静かに寝息を立てていた。
「こたつで寝るなよ」
巻いていたマフラーを外して、コートを脱いだ。暖房を入れて寝ている伊坂の横に座る。その、のんきな寝顔を見ていると隠していた思いが自然に口から漏れた。
「どうしたらいいんだろうな」
こんなに好きなままで。
声に反応したのか、伊坂が身動ぎする。ふわっと目蓋が開いて、すぐに瞳が俺を捕らえた。
「なんでないてんの」
「泣いてないだろ」
「泣いてるみたいに見えた」
「気のせいだ」
「どこいってたの」
「教えない」
なんでだよ、と笑う伊坂の横に潜り込む。
「大したことじゃない」
お前より大切なことはないんだ、と胸のうちにだけ答える。
「そっか」
囁いた言葉の語尾が口の中で溶けていく。俺はまた寝入ってしまった伊坂の寝息につられて眠りへと落ちていく。
あと少しだけこうやってお前の傍で眠ったらちゃんと決めるからと、何度も繰り返した言い訳を飲み込んで。
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