結婚式の二次会

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結婚式の二次会

 彼女の手は女性にしては少し大きめで、筋が張っている。屋外スポーツが好きな日に焼けた手は男っぽくもあるが、肌はとてもきめ細かく女性的だ。感触を確かめる。さっきの感じとこの手とすごく迷うけど、多分こちらだ。うん。 「中川先生、決まりましたか?」 「決めました」 「ファイナルアンサー?」 「ファイナルアンサー」 「ではアイマスクを外します!どうぞ!」  彼女の手を握ったままアイマスクが外される。暗闇に慣れた目にはライトが眩しくてしばらく目を閉じていたが。 「あれ」  手を掴んでいると思っていた深山さんはその隣で爆笑していて、俺が掴んでいたのは困った顔をしている森見の手だった。 「妻の手を男と間違えるなんて、どうかと思わない?」 「いや、悪かったって」 「惜しいところまでいってましたけどね」 「絶対深山さんだと思ったんだけどなあ」  残念でしたと笑う深山さんはアルコールが入っているせいか、夫に男の手と間違えられたというのにご機嫌だった。その隣で空になる暇もなく注がれるシャンパンを機械的に口に運ぶ森見の方が困った顔をしていた。 「盛り上がりはしましたけどね」 「校長見た?バカ受けだったよ」 「新郎冥利につきるよ」  ピザとお酒が美味しい郊外の居酒屋。後輩が見つけたこの店は、結婚式の二次会にはぴったりだった。程よくアルコールが回り盛り上がってきた頃、出し物として目隠しをした状態で奥さんの手を当てるというゲームをしたのだが、俺は見事に不正解だったというわけだ。今後しばらくのネタを提供してしまった。 「森見まで巻き込んでしまってなんだか悪いな」 「しばらくからかわれそうですね」 「仕方ないよねえ、あたしじゃなくて森見君を選んじゃったんだから」  少しも気にしたふうのない深山さんは、せっかくきれいにセットした髪もドレスも台無しなほど豪快に笑った。まあこれが彼女のいいところであり、付き合う前から同僚として世話になったのもあって、直してほしいとは全く思わないのだけれど。と、思っていると後輩の女の子が深山さんに詰め寄った。 「深山先生、せっかくきれいにしてるんですからそんな笑い方しちゃダメです!」 「えー、お酒回ってるから分かんない」 「深山先生がそのぐらいで酔うはずないのはバレてますから。ね、森見先生」 「そうですね」 「ちょっとー森見君までそんなこと言う?」  不満げな深山さんに絡まれても森見はただ淡々とグラスを傾けている。肩に回した方の手でシャンパンのボトルを持ち、森見のグラスに注いでいる姿はほとんど酔っ払いのおっさんだった。 「深山さんは水みたいにさらさら飲むから、俺は付き合いきれないよ」 「そうそう、中川ってね、全然弱いんだよ。家で飲んでてもつまんない」 「多分、深山先生に付き合える人ってそうそういない……っていうか私さっきから気になってたんですけど」  後輩がまさに由々しき問題だとでも言うように深刻な顔で言った。 「二人は夫婦なのにいまだに苗字で呼び合ってるんですか?」  言われて、俺は深山さんと顔を見合わせる。改めて言われると、俺たちはいまだに苗字で呼び合っていた。  前に付き合っていた子に浮気されて、その子が別の学校へと赴任してからのことだから、深山さんと付き合うようになってから結婚に至るまで、実は一年も経っていない。不思議なほどとんとん拍子にここまできたのだが、だから付き合っていた期間よりも同僚として過ごした時間の方が長いのだ。俺にとって頼れる学年主任だった深山さんは、今でも妻というよりは先輩の感が拭えない。 「今更呼びづらいな」 「そうなのよねえ。今さらこの人のことを名前で呼ぶとか」 「ええ、変ですよう。名前で呼びましょうよ。新婚ですよ?」  不服そうな後輩に今呼んでみてくださいと言われて、もう一度顔を見合わせるけれど、お互い変な顔で笑いだしてしまった。 「無理無理、やっぱり無理」 「だって深山先生、もう深山じゃ無くなっちゃうんですよ」 「でも仕事ではこのままにするつもりだし」 「新婚の頃だけですよラブラブでいられるのは」 「新婚って言ってもなあ」  すでに結婚している後輩は、どうやら俺たちにというよりは夫に不満があるようだ。とばっちりである。  そもそも俺も深山さんも三十代半ばで、もう新婚でラブラブなんて歳でもない。本当は式を挙げるのも悩んだのだが、母親に一生に一度のことだからちゃんとドレスを着させてあげなさいと叱られてしまった。しかし実際今は結婚式をしてよかったと思っている。ドレスを着た深山さんはきれいだった。 「森見君とこは?」 「何がですか」 「名前で呼んでる?」 「いや、苗字ですね。学生の頃からそうだったからお互いに」 「ほらね。そんなものなんだって」  得意げな深山さんに、俺は結婚してないですよと森見が言った。 「何言ってんの、あんたのとこは事実婚でしょ」 「ごめん、森見。この人酔ってるから」 「あたしは全然酔ってませんー」  なんだったら今ここで逆立ちでもしてみせようかと妙なプライドを見せる深山さんをなんとか抑えるのは大変だった。  その後話を聞きつけた他の同僚たちに今から名前で呼び合えとコールが巻き起こり、酔っ払った校長まで悪乗りして花嫁がブチ切れるという散々な二次会だったけれど、やっぱりいい職場だなあと俺は深山さんにキスをしてその場を盛り上げた。 「森見、大丈夫か?」  あの後、八つ当たり気味に飲み散らかした深山さんに巻き込まれてたくさんの同僚たちが店のテーブルに沈んでいった。最後まで付き合っていた森見も、つい先程とうとう陥落した。ちなみに俺は最初から自粛している。  ともかくも、このままというわけにはいかないだろう。他の奴らはまだ自力で動いているが、森見はほとんど目を閉じる寸前だ。 「森見、どうする?タクシー呼ぶか?」 「いや……」 「チケット出すから」 「大丈夫です、迎えを呼ぶ、ので」  内ポケットから携帯電話を取り出して、もそもそと電話をかけ始める。しかしもう少しというところで森見は寝落ちてしまった。 「おいおいどうすんだよ」 「どうせあれでしょ、彼氏君でしょ」  貸して、と深山さんは意識をなくした森見の手から携帯電話を抜き取った。微かに電話の向こうから「もしもし」と声が聞こえている。 「もしもーし伊坂さんですか?森見君の同僚の深山です。そうそう、いつぞやの深山です。森見君をベロベロにする……いいえーありがとうございます。え?そう。またやっちゃったの。だから迎えに来てあげてくれない?電話かけたところで力尽きちゃって」  よろしくと電話を切った深山さんを見ながら、これからの人生、きっとこの人の尻にしかれっぱなしになるんだろうなあと俺は未来に想いを馳せた。 「大丈夫そうですか」 「うん。元々迎えに来るつもりだったから場所とかも大丈夫だって」 「迷惑かけまくりじゃないですか」  ぽつぽつと招待客が帰り始めた頃、店の入り口に見慣れない男が立っていて、それが森見の恋人の伊坂さんだった。ちょうど校長を見送った俺は、深山さんと森見の方に戻った。 「お久しぶりです。また今日もご迷惑をかけたようで」 「いやあ、たくさん飲ませたからねえ」 「どちらかと言えば迷惑をかけたのはこっちですし」  俺は慌てて頭をさげる。こちらこそ、と笑う伊坂さんは確かになかなかのイケメンだった。落ち着いているけれど、まだ少しやんちゃそうな雰囲気は今でも結構モテるんじゃないだろうか。 「この度は結婚おめでとうございます」 「ありがとうございます。なんか本当にすみません、妻が調子に乗って飲ませまくったから」 「多分、嬉しかったんでしょう。深山さんにはとてもお世話になったと言ってましたから」 「かわいい後輩だよね」 「かわいい後輩に飲ませすぎだ」 「森見、迎えに来たぞ。起きろ」  伊坂さんが肩を揺すると、森見は微かに身動ぎして顔を上げた。そしてほとんど寝惚けた顔で名前を呼んだ。 「ん……理一?」 「大丈夫かお前。帰るぞ」  立てるか、と聞いた伊坂さんに森見が幼い子供みたいに頷く。伊坂さんは俺たちに会釈すると片手に荷物を持って、もう片方の手でふらつく森見を支えるようにして店を出て行った。 「確かにイケメンだったな」 「でしょ。いい男見つけたよね」  あんなに隙だらけの森見は、もうなかなか見れないだろうなと思った。  深山さんが大きく伸びをしながら早くドレスを脱ぎ捨てたいとぼやく。俺はそれに、本当に窮屈だなと返す。こんな格好は一生に一度で充分だと顔を見合わせて笑った。 「ねえ、明日の朝はお茶漬けとかにしようね。あたしお腹いっぱいになっちゃった」 「普通、花嫁はそんなに食べないんじゃないですか」 「食べないと損じゃない」  おっさんみたいにお腹をぽんと叩く、こんな花嫁もいないだろうなと思いながら俺はその背中に呼びかける。 「文香さん」  振り返った妻に明日の朝は寝坊してカレーにしようと言ったら、それもいいねと幸せそうに笑った。
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