手を握る

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手を握る

 重そうなお腹を支えながら隣に座って、香は大儀そうに息を吐いた。向かい側で伊坂が店員を呼ぶと、大学生くらいの可愛らしい女性店員がやって来る。にこやかに注文を取った彼女は、しばらくして飲み物とブランケットを置いていった。 「若いのに気が利くね。うちの子もあのくらい気がつけばいいんだけど」 「七海ちゃんのこと?」 「いい子なんだけどイマイチ気が利かないというか、ぼうっとしてるというか」 「厳しいな」  マフラーを解きながら眉を寄せる香に、その向かいに座る森見が笑った。相変わらず小食らしい森見は、食事よりもワインばかりが進んでいる。 「つくづく思うよね。仕事のできるできないは年齢じゃないなって」 「そうか?うちの若いやつなんて指示待ちばっかで全然使えないけど」 「それはあんたがちゃんと教育しないからでしょ」 「なんで自分のことは棚上げしてんだよ」 「相変わらずケンカばっかだなあ長谷川夫婦は。子供にお腹の中まで聞こえてたって言われるんじゃないの」  からかうよな伊坂の言葉に笑って、香は「そうかも」と大きくなったお腹を優しく撫でた。  年賀状の「そろそろ臨月です」の走り書きを見た伊坂から、帰省するから食事でもしようと連絡があったのはつい先週のことだった。本当は家に呼ぶつもりだったのだけれど、たまには外食したいと言い張った香のために仕方なし近所の洋食店を予約した。妊婦なんだから出歩くのも散歩くらいにしろというのだけれど、今日もここに寄る前に仕事場である美容院に顔を出して来たらしく、約束の時間より遅れて到着した。 「ここのね、カキフライが美味しいのよ」 「そんなの食べて大丈夫なのか?」 「最近は食欲が増しちゃって。子供が大分降りてきたからかなあ」 「お前、医者にこれ以上は体重増やすなって言われてただろ。ただでさえ高齢出産なんだからリスクを増やすなよ」 「私どうしてもその高齢出産っていう表現に引っかかるのよねえ。すごいおばあちゃんが産むみたいじゃない?」 「確かに」  言いながらまたグラスを傾ける森見の皿に、伊坂がせっせとサラダとポテトを盛っている。こうでもしないと食べないんだと困った顔で伊坂は言った。 「さすがに店は出てないんだろ?」 「立ち仕事はねえ、きついよね」 「結構ぎりぎりまで仕事してたんだぜこいつ。店の子が言わなかったらまだ客の髪切ってたんじゃないの」 「だって好きなんだもん仕事が。今日もお店寄ってきたけど、まあ大丈夫そうだったかな。七海ちゃんがちょっと心配だけど」 「志波君がいるから大丈夫だろ」 「事業主は大変だな」 「私は先生の方が大変だと思うけどね」  それには答えずに森見はただ微笑っただけだった。 「自分たちが学生の頃を思い出すとさ、先生って大変だっただろうなあって思うよね」 「俺は絶対嫌だもん、伊坂みたいな生徒」 「俺かよ」  そういえば伊坂は停学になっていたと思い出す。全くやんちゃにも程があるけれど、目の前にいる伊坂はあの頃とあまり変わっていない気がした。それとも隣にいるのがいまだに同じ人だからだろうか。 「俺は担任がこいつだったら絶対真面目に授業受けてたと思う。一時間も気兼ねなく見てられるんだぞ」 「何それ怖いんだけど」 「伊坂君てほんとブレないよねえ」 「基本的に好きだからな。俺が、こいつを」 「夫婦円満のコツはなんなの」  夫婦じゃないけどと呟く森見を無視して伊坂の方に身を乗り出す香は、こちらを見もせずに茹でたブロッコリーを俺の皿に乗せてくる。そういうところがケンカの要因になるんじゃないのと思いながら俺は無言でブロッコリーを口に入れた。柔らかくて美味い。 「なんだろうな。お互いがめっちゃ好きだとか?」 「それはお前だけだろ。俺はさ、昔から思ってたんだよ。森見は伊坂の何がよかったんだろうって」 「長谷川君はなんか恨みでもあるのか俺に」 「あるある」  あれとかさ、と学生時代の話をひっぱり出してくると同じタイミングで全員が吹き出した。あの頃の話は、今思えばくだらないことなのに今でも無条件に笑ってしまう。こういう時に学生時代の友人は大人になってからのそれとは違うと感じる。 「あの時ってお前らもう付き合ってたんだっけ?」 「そうだな夏休みが終わってたから」 「何気にお前らが一番付き合いが長いんだよな」 「数ヶ月なんて誤差の範囲だろ。俺はさ、絶対お前らが一番に結婚すると思ってたのに」 「まさかの黒田!」  ここにはいない友人の悪口でひとしきり笑ってから時計を見ると9時前だった。7時に予約していたから、もうそんなに経っていたのかと驚いた。 「でもさ、本当にすごいなあと思うんだよ。結婚してない二人がずっと一緒にいるのって」 「自分もじゃないか」 「あんたが煮えきらなかっただけでしょ」  それにはぐうの音も出なくて、皿の上にポツンと残されていたブロッコリーを黙って口に運んだ。  結婚を決意したのが昨年のことで、家族や友人だけを招待した結婚式をした。それからすぐに妊娠が分かって、ここまであっという間だった。高校を卒業する頃から付き合い始めてすでに二十年近くが経とうとしている。一緒に暮らすようになってからも十年は経つだろう。親にはうるさく言われたし、それ以上に香はいろんなことを言われていたんだと思う。別れるという選択肢もあっただろうに、それでもそばにいてくれたことは感謝しかない。  もちろん俺たちとは事情が異なるとはいえ、想像できることはある。きっとこの友人たちもたくさん大変な思いをしてきたのだろうと思う。 「私の知り合いにも同性で付き合ってて別れたって人がいたんだけど、やっぱり難しいんだろうなって。周りからの色々もあるだろうけど、何より当人同士の気持ちがね。続けていくには努力が必要だよなあと思って。本当は同性同士に限ったことじゃないと思うけど」  香は話しながら温くなっただろうカップを両手で包んでいる。俺はその水仕事で荒れた自分よりも小さな手を見るたびに、守るべきものがそこにあるように感じた。それこそが長い間一緒に居続ける原動力でもあると思っている。  森見は苦笑しながら口を開いた。 「それこそ俺たちに限ったことじゃない」 「そうかな」 「俺はただ怖がりなだけだよ」  森見はそれだけ言うとグラスに残った最後のワインを飲み干した。結局、ワインのボトルは空になったようで、飲み過ぎだと伊坂に叱られていた。
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