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長谷川くんと香ちゃん
すでに深夜に近い時刻だった。三十代も半ばになって得た主任という肩書きは、俺に疲労とやりがいを同時に押しつけてくる。ふうっ、と息を吐いた。
「ただいま」
ベッドからは返事の代わりに寝息が返ってきた。眠っている香の顔を覗き込む。ぐっすりと眠るその顔も、今はあどけない。ようやく持った自分の美容院で、若い従業員を叱り飛ばしている彼女も、こうして見るとまだ少女のようだった。
「お待たせしました」
布団から出ていた手をそっと取ると、その水仕事で荒れた手先をじっと見る。それから重々しく、慎重に、けれど幸福な気持ちでポケットから取り出した指輪を通した。まるでずっとしていたかのように、吸い込まれるようにしっくりと薬指に馴染んだ。
「さすが俺」
起こさないように小声で笑う。
香とは高校の卒業間際から付き合いだして、もうそろそろ二十年になろうとしている。もちろんずっとうまくいっていたわけじゃないし、大喧嘩もしたし、本当に別れるかもしれないぐらいお互いを追い詰めたこともあった。
「ごめんな」
ずいぶんと長いこと待たせてしまった。
「ありがとう」
今までずっと待ってくれていて。傍に、いてくれて。
俺はネクタイを外してスラックスだけ脱ぐと、ワイシャツのまま香の隣に潜り込んだ。
「これからもよろしく」
左手のリングに気が付くのと、ワイシャツで眠る俺を怒鳴り付けるのとどちらが先になるだろうか。俺は少女のように眠る香の寝顔を最後に、明日に思いを馳せながら目を閉じた。
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