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初恋
とても懐かしい人とすれ違って、私は思わず足を止め振り返った。もう人混みに紛れてしまった背中を探すけれど見つからない。後ろから来た人が迷惑そうに私を避けて、仕方なく歩き出す。信号が点滅し始めて、横断歩道を小走りに駆けた。
短大を卒業すると同時に実家を出て、もう10年になる。就職活動もぎりぎりまでなんとか粘ってそれなりの会社に内定が決まり、お茶汲みから雑用まで大してやりがいも見出せない仕事だったけれど、今思えば私は幸運な方だっただろう。短大卒でその会社に入れたのは運が良かったとしか言えない。地元に残った子たちの中には結局内定がもらえずに派遣社員になった子も少なくなかった。あの子達にも、もう長く会っていない。
そんな感傷的な気持ちになるのも、懐かしい人に会ったからだろう。
「好きです」
卒業式を終えた校舎には、もうほとんど人が残っていなかった。渡り廊下は少し寒い。手が震えているのが、寒さのせいだと思ってくれたらいいけど。目の前の男の子は私の手を見ていた。
「悪いけど、好きなやついるから」
伊坂君は少しぶっきらぼうに言った。絶対泣かないと決めていたから、喉から込み上げる嗚咽を一生懸命こらえた。
「それは付き合ってる人ですか?」
「そう、です」
はっきりと言い切ったのに、少し照れたような顔をしていて、ああその人のことが好きなんだろうなあと思った。
「いいですね、付き合ってるじゃなくて好きな人って」
羨ましいな。本当に。
「聞いてもらえてよかった。ありがとう、さようなら」
なんとか笑顔のままそれだけ言って、彼に背を向けた。教室に戻ると待ってくれていた友達の顔を見た途端、私はわっと泣き出してしまった。
どうして好きになったのかと聞かれると、よくは思い出せない。初めは友達が話していて、確かにかっこいいなと思った。話したことさえなかったけれど。
確かに恋をした。
「何をぼうっとしてんだよ」
名前を呼ばれて、はっと我に返った。私は信号を渡り終わったところで足を止めて、今渡ってきた横断歩道の向こうを見ていた。こちらへ歩いてくる夫にごめんと謝る。
「待たせちゃった」
「そんなのはどうでもいいって。それよりそんなところでぼうっとしてて誰かにぶつかったらどうするんだよ」
「大丈夫だよ」
「ばか、お前妊婦のくせに転んだらどうすんだよばか」
私とあまり身長の変わらない夫が、人混みをかき分けながら私の手を引いて歩いていく。小さいのに大変だなあなんて思いながら、私はその背中を頼もしく感じている。初恋の人とは似ても似つかない冴えない人だけれど。
「ああ、そうだ」
確か、何かの時に彼の笑った顔を見たのだ。友達と一緒にいた彼はとても優しそうな顔で笑っていて、きっとこの人は優しい人なんだと思った。それがきっかけだった。さっきすれ違った時も、誰かと歩いていた彼はそんな顔をしていた。もしかしたら友達か、恋人と一緒だったのかもしれないな。
「ん?なんか言った?」
「小さいのに大変だなーって言った」
「お前、怒るぞ」
そんなことを言いながらも解こうとしない手は大きい。今日も幸せ。
夫に手を引かれながら少しだけ振り返る。またいつか開かれる時まで大切にしまっておく記憶は、幼い日の初恋の思い出。それはもう雑踏の中に消えていた。
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