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電話の向こう
携帯電話に着信があったのは、午後10時を過ぎた頃だった。読んでいた雑誌から顔を上げると薄くカーテンが開いているのが見えて、電話を取りながら窓まで近寄る。雨の音がした。
「まだ起きてたか」
「そっちはまだ仕事か?」
「いや、やっと解放されたところだ。生徒たちはようやく寝たよ」
「お疲れさん」
カーテンを閉めてからベッドに座る。ノートパソコンの画面がスクリーンセーバーに変わっていた。仕事をする気はとっくに失せていた。
「そっちの天気はどうですか森見先生」
「いい天気だよ」
「そうなのか。こっちは雨」
「北海道は梅雨がないらしいからな」
「へえ、いいな」
ベッドに寝転んだまま深く息をする。森見がこのベッドにいたのはつい3日前。どこにもその残滓はない。
「本当にいいとこだよ。広くて、きれいだ」
「行ったことねえなあ」
「うちの高校の修学旅行は九州だったもんな」
「楽しかったけど、一緒に行きたかったよ」
「修学旅行は二年の時だったな」
声を聞きながら目を閉じる。すぐ耳元に恋人の声を聞く。低すぎず、高すぎず落ち着いた声。時々小さく笑う。
「三年だったらよかったのに」
「仕方ないだろ」
「今度休み取って行こうか」
「北海道に?」
「北海道に」
それもいいな、と電話の向こうでひとりごとみたいに呟く。唐突に、遠いなと思った。異国でもないのに、ずいぶん遠くにいる。会いたい。
「会いたい」
「なんだよ唐突に」
受話器越しの声は、まるで耳元で話しているように錯覚する。本当に、電話の向こうの空気まで届きそうなほど静かな夜だった。
「4日も会えない」
「一週間以上会えないことなんてざらにあるだろ」
「なんかそういうのとは違うんだよ」
「そうか?」
「会おうと思えばいつでも会えるのとは違うだろ」
もしこの電話が、あの時に会ったのが最後になったら、とよく考える。考えるというよりは怖くなる。夜だからかもしれない。離れているといとしさが募る。
ぼんやりと考えていると、電話の向こうから返事があった。
「そうだな」
「何が」
「確かに違うなと思って。お前が言い出したんだろ」
呆れた声。今どんな顔をしているか簡単に想像がつく。もし自分に絵を描く才能があったなら、きっと見なくたって描くことができるだろう。笑った顔も怒った顔も、泣いた顔も寝ている顔も何もかも、脳裏には鮮明に思い描くことができる。
「俺も会いたいよ」
今すぐに。
「お前にこの星空を見せたい」
今すぐに隣に行けたらいいのに。
「帰ってきたら旅行の計画を立てよう」
「うん」
「だから、気をつけて帰ってこいよ」
俺のところに。
ああ、と返事があって、俺はひどく安心した。
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