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優しい声
名前を呼ぶ声に俺は意識を取り戻した。すぐそばで規則正しい電子音が聞こえる。まぶたを開けようとしても自分のものではないかのようで、ひどく重い。足音がバタバタとやかましくて少し顔をしかめるけれど、あまりうまくできた気がしなかった。
「伊坂」
もう一度呼ばれて急激に覚醒する。応えなければと、光の射す水面をめがけて急上昇するように俺は声の聞こえる方に向かって目を覚ました。
「先生、意識が」
「酸素は」
一気に音を取り戻した俺の耳にありとあらゆる声が注ぎ込まれるが、その声だけは他のどの音よりも明確に響いた。探す間も無く、白い天井より先に見えた顔に今度こそ俺は表情を変えた。
「聞こえるか」
昔から変わらない硬質な声。不安そうな顔に手を伸ばそうとしたけれど、ようやくシーツから手が出ただけだった。言葉を発したいのにマスクが邪魔だった。
「俺が分かるか」
俺がかろうじて首を傾けると、森見は少し表情を和らげる。冷たい外気に触れていた手が急に温かいものに包まれたと思ったら、それは森見の手だった。昔と同じ、ほっそりとした手。
「どうされますか」
「大丈夫です。このまま」
「分かりました」
医者と看護師が視界からいなくなると、俺の眼に映るのは森見だけになった。
「大丈夫か」
あんなに苦しかった呼吸が急に楽になって、ようやく声を出すと驚くほど小さかった。そういえば、と父親が亡くなった時のことを思い出していた。
「それは俺のセリフだバカ」
泣き笑いの顔で森見が俺の手をぎゅっと握った。俺の口元に耳を寄せた森見から感じる匂いに安堵する。
「苦しくないか」
「うん、今は」
「苦しかったら無理に喋らなくていいからな」
「ああ」
喋らなくていいと言われたけれど本当に苦しくなくて、俺はまた口を開く。何かを話したいのだというよりは、ただ森見の声が聞きたかった。
「今何時だ」
「何時かな……もうすぐ夕方の6時だ」
「いい時計だな」
「お前がくれたんだろ」
そうだった、森見が付けている腕時計は俺が誕生日に贈ったものだった。あれは何歳の時だったかな。よく思い出せないけれど、受け取った時の森見の顔はよく覚えている。
思い出の中の顔が、今の憔悴した森見と重なった。
「晩飯は食べたか」
「ああ……いや、まだだ」
「ちゃんと、食べてるか」
「うん」
「一人でも」
「分かってる」
少し痩せた森見は風邪をひきやすくなっていた。昔からたくさん食べる方じゃなくて外食をした時も俺の方が多く食べていたけれど、最近ではさらに食が細くなってきている気がする。それでも俺がいた時は、どんなに忙しくても一緒に食事をしていたから良かったけれど。
体調を崩しても無理をしがちな森見のことが心配だった。
「俺がいないからって、食事を抜いたり」
「概ねきちんと食べている」
「コーヒーだけは、ダメだから」
「ああ」
「ちゃんと」
急に苦しくなって俺は咳き込んだ。気遣わしげに覗き込む森見に大丈夫だと言いたいのに、まだ他にも言いたいことはある気がするのに、視界さえも霞む。
「無理に話さなくて大丈夫だ。ちゃんと分かってるから」
するりと額に触れた指先は乾いて温かい。あの細い指が、大丈夫だからとなだめるように俺の髪を繰り返し撫でている。
「森見、なあ、浩之」
「どうした」
俺はお前を遺して行くのが不安で仕方ないんだ。ちゃんとご飯を食べないことも、俺が誘い出さないと外にも出ず日がな一日本を読んでいることも、大丈夫じゃないくせに大丈夫だと無理をすることも。俺だけが知っているお前の弱さを、俺が支えられなくなることが。そして何よりも、
「お前と、会えなくなるのは、いやだなあ」
本当に本当にお前のことが好きだから、お前に会えなくなることが一番辛い。
「うん、俺もそうだよ」
もう焦点は合わなくて、森見の顔は見えない。けれど耳に届いた声はとても優しく響いた。初めて出会ってからもう半世紀以上も一緒だった、俺の愛しい人。
たくさんの家族に囲まれて看取られたかもしれない人生を奪ったのは俺だから、もしもお前が死ぬ時にたった一人だとしたらそんな悲しいことはない。どうか温かな最期を迎えられますようにと、俺は最後の力を振り絞り願う。
「お前に会えて本当に幸せだった」
もうどんな返事をすることもできなかったけれど、きっと伝わったと信じている。
俺もお前と会えて幸せだったよ。
「理一」
最期に聞こえたのは俺の名を呼ぶ優しい声だった。
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