いつの日か結ぶ透明よ

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 森の木々の手暗がりから、陽光に温まった庭園の石畳に戻ってくると、紫の花をつけたセージが波打ち、脹脛(ふくらはぎ)をくすぐった。似た色を持つよしみでか、隣の花壇でラベンダーも真似をする。悪戯を(たしな)めるようにささめく、ユリにコストマリー。西の壁際のニワトコは我関せずで、隣のバラ園から壁を越えてきた蔓に挨拶を試みている。  声なき賑わいの上を、風の足跡が光を伴って(よぎ)った。変わらない風景を確かめる少女に、帰宅を促すようにして。    眩しさに目を細めながら、ルトラは庭園の奥に佇む家へと小路を進んだ。開けたままの扉からバラの香りが漂ってくる。蒸留は順調なようだ。  いつも付きっ切りで火加減を見るのだが、ここ数日、鶏の中雛が一羽迷子になっているせいで、そうもいかない。鶏冠(とさか)が生えたとはいえ、まだピヨピヨ鳴くくせに、この広くも限りある「楽園」の、どこまで遠出したのだろう。      庭園を囲む森から一歩踏み出せば、谷底へ真っ逆さま。ここは谷間に(そび)える孤島だ。果樹に薬草にと豊かな実りを冠し、西の対岸の森にあるヴィータ村の民から「天から落ちてきた楽園の欠片」だと神聖視され、守られてきた。  聖域の内に住まうのは、太古の昔、争いの種を蒔く悪魔をこの地の薬草で退けたという、聖女の子孫のみ。外から立ち入れるのはヴィータ村の村長と、その家族のみ。対岸と繋がる道も、たった一本の吊り橋に限られていた。  その橋が三年前に失われて以来、「楽園」は孤立状態にある。鶏は自由になった気でいるだろうが、結局は巨大な緑の鳥小屋の中だ。なのにどこにも見当たらないから、落ち着かない。中央の麦畑、東の泉、庭園から一番遠いブドウの密生地にまでも、何度も足を運んだのに。  ルトラは唇を噛んだ。行違っている可能性の方が高い。けれど森という鶏小屋を閉ざすのは、板ではなくて虚空だ。羽を過信して落ちてしまったのだとしたら、もう……。      知らず丸まった背中に付き従ってきた風が、戸口での別れざまに髪を乱し、視界を奪う。手櫛を入れ、不揃いな後ろ髪を振り払って――ルトラは溜め息を、のみ込んだ。    (から)のはずの家に、人影がある。    戸口から差す光が遮られ、闖入者(ちんにゅうしゃ)も少女に気づいて振り返った。ひどく慌てた様子で後退(あとずさ)る。その腕に抱かれた鶏が、急な動きに抗議の声を上げた。容姿に合わない幼げな鳴き声。ここ数日の尋ね鳥だ。 「勝手に入ってごめん! この鶏、ここの子じゃないかって訊きに来たんだ。そしたら変わった装置が見えたんで、つい」  気まずそうに俯き、距離を取ってなお、蒸留器を横目に言い開く青年はむやみに大きく見えた。  木の葉などくっ付けた(はしばみ)色の髪は、裏庭側の窓枠より少し高い位置にある。村長の禿げ頭も同じ高さにあったから、この青年が特別長身なのではない。自分より小さな生き物ばかり見慣れているから、大きく見えるだけだ。  結論付けて、ルトラは軽く咳払いをした。珍しさのあまり、観察に(ふけ)っている場合ではない。返事をしないと。    ――そう、返事を!     驚きの後ろから、喜びが突然勢いをつけて顔を出した。話し方を忘れないよう、鶏や、森の動物たちには毎日声をかけていた。けれど、話は決まって一方通行だ。それが今は、進んで話しかけ、返事を待ってくれる相手がいる――なんて嬉しい変化だろう。   「……ありがとう。ずっと、探してたの。私はルトラ。あなたは?」 「マルベルって呼ん――うわっ」  青年が名乗ると同時、退屈したらしい鶏が羽ばたき、彼の腕を振りほどいて少女のもとへ逃げた。咄嗟に追いかけて手を伸ばし、青年は先刻下がった距離を大幅に踏み越える。  指先が空を切った。かき分けられたバラの()、その隙間へ流れ込む空気に――ルトラは異質なにおいを感じた。    金属質な、煙のにおい。    それは有無を言わさず、瞬時に記憶の火を焚きつけて、少女の脳裏に三年前の光景を炙り出した。
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