いつの日か結ぶ透明よ

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 荷物を背負ったマルベルの先導で、ブドウの蔓をつたい、ところどころの岩場で休みながら、「楽園」から下りる。魔除けの花冠を編む暇はなかったが、作りたてでまだ温かいバラの香り水と、傷の消毒用に常備していたセージの煎薬を背負い袋に入れて来た。傷を保護する卵白と油の軟膏に、打ち身や打撲に効くニワトコの葉も。    絶えず周囲に満ちていた植物の香りが遠のいたからか、家で青年と話していたときに勝る非日常感に包まれている。最後の足場から抱え下ろされて谷底に立つと、いよいよ鼓動が激しくなった。ここに治療を待つ人がいる。  ルトラは初めて、母の言った自分自身に期待するという感覚を味わっていた。     そんな高揚した気分を――崖の陰から現れた影が、凍り付かせた。  しなる弓に、つがえられた矢。引き絞る手に半ば隠れた、険しい表情。敵意を明らかにする男にマルベルが気づき、上擦った声で呼びかけた。 「フィロウ、やめろ! 『楽園』の聖女様だ。デレックを診てもらうんだよ」 「……薬草を探してくるとしか言わなかったじゃないか」 「悪かった。『楽園』だって確証はなかったから」 「マルベルは人がよすぎる。この崖の上が『楽園』なら、やっぱりあの焼けた村が、俺たちの村だったんじゃないのか? その子が、村が滅んだあとに住み付いたよそ者じゃないって証拠は、どこにある?」  声を聞きつけ、さらに数人が集まってきた。皆が皆、剣や弓矢を構えている。マルベルから感じるのと同じ火薬のにおいが、濃くなった。  思えば当然のことだった。彼らの疑念は、ルトラがマルベルに向けたものと全く同じだ。浮かれて不用意だったことを後悔しながら、ルトラは自分がヴィータ村の一員だと説明しようとして――その難しさに気が付いた。    彼らが暮らしていた村の様子を、ルトラは知らない。マルベルがしたように、共通の話題で信頼を得ることはできそうにない。話せるとすれば魔除けの花冠のことくらいだが、マルベルが教えたのだろうと言われればそれまでだ。彼の立場も悪くなる。   「何か言えよ。聖女様なら、村のことを知ってるだろ」 「彼女は村に行ったことがないんだよ、クルト」 「そんなこと信じられるか。マルベル、なぜ彼女を信じる?」 「彼女が先に、僕を信じてくれたからだ。それに彼女が敵だったとして、単身乗り込んでくるものか。ベルタ―、剣を下ろせ」 「おまえこそ、その荷を下ろせ。そいつに惑わされて、毒でも担いできたんじゃないだろうな」 「アマロ、いい加減にしろ!」    見かねて、ルトラは目を反らした。  争いの種を蒔く悪魔を退けた聖女の末裔が、今争いを引き起こしている。「楽園」を出るべきではなかった。想像より美しい現実などない。家に留まっていれば、こんなことにはならなかったのに……。知らず噛んでいた唇から、(さび)の味が口内に流れた。  僕の仲間も、と言ったマルベルの言葉が蘇る。言い争う彼らの唇は確かに、傷ついていた。心の傷そのものだ。  もし自分が逃げ帰って、落馬したという彼らの仲間が回復しなかったら、皆はさらに深く、唇を噛むのだろうか。マルベルの歯は割れてしまうかもしれない。  私だって、役に立てるという自分への期待を裏切ったままでは、何のために生きているのか分からなくなる――諦めずに、考えなければ。  ……「考える」。  母が言っていた。古の聖女が悪魔を退けられたのは、植物の力に精通していたからであり、悪魔の正体を誰より深く考えたからだ、と。争いを招く悪魔とは、何だったのだろう。バラとセージの何を恐れたのだろう。  家で、あの香りを吸い込んだ。そのあと、マルベルとは打ち解けられた。あの香りで薄らいだのは――怒りだ。怒りが邪魔をしたままだったら、落ち着いて話し合い、疑いを晴らすことはできなかった。そうだ。爽やかなセージが我に返らせ、バラの甘い香りが気持ちを鎮めた……。 「マルベル、荷物を」    戸惑った様子の青年から荷物を受け取り、視線に突き刺されながら、二つの瓶を取り出した。セージの煎薬と、バラの香り水。それぞれを右手と左手につけて、ルトラは男たちに向かい合う。   「あなたたちが村を出たあと、花冠の香りを楽しんだと聞きました。ここに花冠はないけれど、それはこんな香りだったはずです」    花の名前を知らず、においを感じられないマルベルでは、教えたくても教えられない情報だ。  突き付けられた剣越しに、手を差し伸べる。火薬の、皆の辛い記憶の残り香を、払うようにして。    ――男たちが、一様にぽかんと口を開いた。    香りは記憶を呼び起こす。ルトラが一瞬で過去に連れ戻されたように、彼らも懐かしい村の光景を、目にしたのだろう。  最初に武器を向けたフィロウが、最初に手を下ろした。ほかの皆もそれに習う。   「……悪かった。あんたは間違いなく俺たちと同じ、ヴィータ村の一員だ、聖女様」  口々に謝罪する、全員の頬に涙がつたっている。それを見たとたん、ルトラの目も熱と潤いを帯びた。  慌てて唇を噛もうとしたが――横から伸びてきたマルベルの手が頬を挟んで、それを阻止した。   「泣いてもいいだろう? 僕の記憶にある故郷は、泣きたいときに泣けないほど不自由じゃなかったし、誰も慰めないほど冷淡でもなかったよ。皆好きなだけ泣いてくれ。そしたら僕も、『故郷に帰って来た』って思えるからさ」    香りで記憶を共有できないのが寂しくてか、拗ねた口調ではあったが、相変わらずマルベルの言うことは優しい。  促されるまま、瞬きと共に落とした雫は、蒸留器から滴るそれよりずいぶん熱かった。目に沁みるその感覚をひと時懐かしんで、ルトラは涙を拭う。怪我人の手当てが先だ。もう泣くのはいつだっていい。こんなにもすぐ泣き止めるのだから。  仲間と連れ立ち歩きながら、ルトラは願う。    これから先に流れる涙よ、願わくはその多くが、こんな歓喜の結露でありますように。
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