第四話

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第四話

「何事も無かった?」  昨日と同じく、交番に集合すると、赤松にそう聞かれる。  中野が微妙な顔をしていると、岡林の方が青ざめた顔で言う。 「夫が……いなくなりました……」 「えっ……」  薬指の指輪を撫でながら、岡林は俯く。  それでも、彼女は決心したように顔を上げた。 「だ、大丈夫です。あの人なら、きっと……きっと、帰って来てくれるはずですから……」  気丈に振舞っているようだが、蒼白な面持ちは変わらない。  中野はふと、「つまらない男」と告げて、いなくなった恋人を思い出した。  ただ振られただけでもかなり堪えたのだ。相思相愛の相手が姿を消すなど、不安に決まっている。 「大丈夫です。犬上(いぬがみ)……いえ、岡林巡査長。この事件を解決し、旦那さんも無事に連れ戻しましょう」  言い直しはしたが、つい旧姓の方で呼んでしまったのでどうにも締まらない。  それでも岡林は勇気づけられたのか、涙ぐんだのが中野にもわかった。 「そ、そうですね。中野巡査部長、ありがとうございます……」  天井は昨日の染みなどなかったかのように、無機質な色に戻っている。  赤松は頬の傷を撫でつつ、震える岡林をじっと見つめていた。 「ヤマナっち。心当たりある?」  ふと、山名に向けて赤松が問う。 「……あるわよ。……でも……」  それに対し、山名は少し躊躇いがちに答える。 「いえ……仕方ないことよね。着いてきてちょうだい」  沈痛な表情で、山名は立ち上がる。  その態度に、中野は嫌な予感を隠せなかった。  山名が先導し、四人は街道を外れて森林の方へと向かう。 「岡林ちゃんさ、旧姓は犬上でいいんだよね?」 「えっ? え、ええ、そうですが……」  赤松の問いに、岡林は素っ頓狂な声を上げつつ肯定した。 「正直なことを言うとね。原因、もうとっくに分かってたんだよ」 「な……っ、それは一体……!」  中野が赤松に疑問をぶつけきる前に、山名が声を上げた。 「着いたわよ」  林の中に、古びたプレハブ倉庫がある。  どれほど長らく放置されていたのかは分からないが、外装からして、とうの昔に使われなくなった倉庫であるとは見て取れた。  しかし、古さよりも目を引くものがある。  真新しい(ふだ)が、倉庫のシャッターにいくつも貼られていた。 「手頃な場所、ここしか無かったのよね」  よいしょ、と勇ましい声を上げ、山名がシャッターに手をかける。 「……中野。覚悟しときなさい!」  なぜ、自分だけなのか。  岡林には何も言わないのか。  その疑問を口にする間もなく、シャッターは開かれた。鼻の曲がるような異臭に、中野は思わず口を押さえた。  慣れきったはずの蝉の声が、やけにうるさい。滴る汗の感覚や、鳴り響く鼓動が、無意識から意識の表層に滑り込む。  時の流れが緩やかになったような錯覚の後、中野は「それ」が何なのか理解した。  死体だ。    首は無惨に折れ曲がり、顔や身体のそこかしこから骨が見えている。腐敗の進行具合に対してあまりに白骨化が進みすぎている気もするが、今が暑い季節であることを思えば、死後数週間程度の状態であると推測できた。 「ゥ……ぐ、ァア……」  死体は(うめ)き声を上げ、血塗れの手をこちらに伸ばしてくる。指には、まだ真新しい結婚指輪が嵌められている。  どろりと眼窩(がんか)から落ちかけた目玉が、中野たちを見た。 「あなた……!」  岡林の叫びは、悲鳴ではなかった。  その声に満ちていたのは、紛れもない、再会の喜びだった。 「無事で良かった!!!」  無事? どこが?  思考が追いつかない。  岡林は腐臭を放つ姿に怖気付くことなく、夫に抱擁(ほうよう)した。 「あんたの旦那、中野を襲ってたわよ」 「ええっ、そうだったんですか……? それは、ご迷惑をおかけしました」 「証拠を消そうとしたんでしょうね。……あんたが、『ティンダロスの猟犬』だから」  今、山名は、何と言った?  混乱する中野を他所に、山名は続ける。 「最近、クトゥルフ神話は色々と流行っているものね。だからよく誤解されてるのよ。……そもそも、『ティンダロスの猟犬』は犬じゃないって言うのに」 「えっ、犬じゃないの? 猟犬っつってんのに?」 「……赤松……ほんと、あんたねぇ。関係ないって踏んでたんでしょうけど、下調べくらいしたらどうなのよ。『ティンダロスの猟犬』はそもそも姿を言い表しにくい……いわゆる『名状しがたい姿』をしているはずなの」  ──グルルル……  犬の(うな)り声がする。  中野は岡林夫婦の周りに、確かに犬の影を見た。 「あんた、狗神憑(いぬがみつ)きの家系でしょ?」  狗神憑き。  中野にとっては、少しばかり聞き覚えのある単語だった。  未だ部下のことを信じたいとばかりに、中野は岡林由依の方を見つめる。それでも彼女は俯いたまま、肯定するよう首を縦に振った。  四国の伝承、狗神憑き。  いわゆる蠱毒(こどく)の要領で犬たちを殺し合わせ、最後に残った一匹を土に埋め、餌に首を伸ばしたところでその首を切り落とす。  そうして出来た(うら)みの力を使役する呪いだ。  岡林由依……旧姓犬上由依はそれを行った呪術師の血筋であり、幼い頃から、特に年配の人間に時折差別的な扱いを受けていた。  中野も、彼女から「血筋のことが原因で年配の警部補からパワハラを受けた」と相談されたことがある。  中野にはまだよく分からないが、斗沼は「そういう土地」なのだ。怨みや、呪いが力を持ちやすい「何か」がある。 「……。分かってたんです。私も呪われてるって……いつか……おかしくなルって……」  由依の影が、大きな犬の形に変わる。  犬たちは由依に付き従うように、彼女の影から次々と姿を現した。 「それでも……美味しそうで……美味しそウで……! たまラなくテ……!!」  由依の瞳が爛々と輝く。唾液に濡れた牙が、その口元から覗く。 「(たかし)さんは、そんな私に、躊躇いなく自分を食べさせてくれました。だけど……私、崇さんを食べ尽くしたくなかった……だって、だっテ、食べ尽くしたら、崇さんがイなくナっちゃう……!!」  上司として二人の結婚式に参列した日の光景が、中野の脳裏に浮かぶ。  岡林崇、犬上由依は、どこからどう見ても仲睦まじく、幸せそうだった。  ちょうど今の二人のように寄り添いあって、笑いあっていた。 「ごめんなさい……耐えらレなかった……食べたくて食べたくテ、仕方なクて……周りに誰もいなかっタから……」  由依の身体がミシミシと音を立て、変形していく。  道を聞いてきたサラリーマン。  巡回中に出会った検察官。  非番の時に鉢合わせた老人。  魔が差した。そう、表現するのが正しいのだろう。 「でも……そんなの、犯罪ですカら……私は、けいさツですかラ……バレるワけには、行かなくて……さン人目にナるとさスがに……ダから、電車に轢かせたノに……」  せめてもの隠ぺい工作に、自分とは結びつかない「犬」を印象付けようとした。  第一発見者は自分だから、被害者の最期の言葉などいくらでも捏造できる。  けれど、彼女は決定的なミスをした。  服すら剥ぎ取られた犠牲者に対し、「ベルトのバックル」の話をしてしまった。  だから、呪いの力は彼女を守ろうと、話を聞いた中野に牙を剥いたのだ。 「あァ……にんゲんじゃなクなル……デも……タかしさンは……愛シてくれタ……ソれでモ生きテ欲しイって……言っテくレた……」  由依の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出す。  崇は言葉にならない呻き声を上げながらも、その涙を拭おうと、骨の指を差し出した。 「……ほんとに、酷い人……でも、愛してる……」  中野は動くことができなかった。  自分の死が目前にあるというのに、彼の目には、二人の姿があまりにも美しく見えた。  次の瞬間。  由依の身体が崩れ落ちた。  胴体から離れた首が、ゴロゴロと倉庫内を転がる。  悲痛な声を上げ、変わり果てた姿のまま、崇は変わり果てた姿の妻を抱き締めた。 「ちょっと、赤松! さすがに容赦ってモンが……」  山名の非難に、赤松はヘラヘラと笑みを浮かべ、由依の首を落とした「手刀」の血を払った。 「いやぁ、こりゃもう無理でしょ。殺すしかねぇべよ」  由依の首を拾い、胴体に(すが)り付き、崇はすすり泣くように呻いていた。 「う……ゥあ……ゆ、ゅイ……ユイ……」  由依の頭が、崇の腕の中で微笑み、目を閉じる。変形しかけていた胴体が、人の形を取り戻す。  やがて、呪いの力で動いていた崇の屍も、静かにあるべき姿へと戻っていく。  犬の影はその姿をじっと見守っていたが、やがて、ワンと一声鳴いてどこかへと姿を消した。  中野はその光景を、呆然と見つめるしかできなかった。  ***  その後、中野は上層部から「ティンダロスの猟犬」に関する事件が解決したこと、犬上……いや、岡林由依が「二階級特進」をしたことを告げられた。  赤松か山名のどちらか……恐らくは山名が、呪いの力が元凶だとだけ報告し、岡林夫婦はその犠牲者ということで片付けられたのだろう。  中野はその年から、盆には必ず岡林家の墓地に向かい、手を合わせることにしている。  せめて同じ墓で眠れることが、二人にとって救いになればと祈る他ない。  犬の遠吠えも、唸り声も、もう聞こえない。  だが……  ──ワン  墓に手を合わせるたび、嬉しそうに尻尾を振る影が、中野には見えている。
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