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父が屋敷の次男と戯れているあいだに、レンヌは隣で笑っているアンナの横顔を盗み見た。共和国南部の出身で純朴な雰囲気を纏っている彼女の持ち上がった頬の下には、陽の光のせいだろうか、薄らと影が差していた。和やかな茶会の空気を壊しそうな気もして、躊躇いがちに彼女の顔を覗き込む。
「クランスターさん。なんだか少しお痩せになりませんか?」
庭園の入り口で彼女の歓待を受けた時から感じてはいたのだ。
おっとりとしていても陰気ではない彼女から気落ちしているような雰囲気が漏れ出していることに、ローレンス氏とヴァルドロン卿も勘付いてはいた。そしてその原因だと思われることにもだ。
マンヴリックの表情が一瞬だけ曇るのを、レンヌは見逃さなかった。
アンナは反射的に微笑を浮かべた。けれどローレンス氏に問い返すような顔で見られると、逃げきれなくなって膝の上のティーカップへ顔を俯ける。
肌色に溶け込むオレンジベージュのルージュを塗った唇をきゅっと引き締めて、彼女は何か堪えていた。けれど、瞼の下を転がる熱を呑み込むと額を振り上げる。
「――――サイマン君か」
兄がこの場にいない理由を知っていながら、どうしてなのだろうなんて疑問を抱き、マンヴリックは母を見つめた。
「私、怖いんです……あの子の心が離れていくのが」
ローレンス氏は解いた膝の上に身を乗り出して、苦しげな微笑の中に消えてゆく言葉に耳を傾けた。カップをテーブルに退けて、アンナは右手の指を左手で強く握り締めた。屋敷で飼われているカフェラテ色のパピヨンが、心配そうな顔をして彼女の足元に擦り寄る。
「もう一週間もサイマンの声を聞いてないわ。どうしたらいいのかしら……」
マンヴリックは茶卓の縁に身を乗り出して母の額を覗き込んだ。
「サイマン、休暇が明けたら話してくれるって言ってたよ。もう少し待って――」
その時、マンヴリックは片腕を己の腹に巻きつけるようにして肋骨の下を押さえつけた。今朝も一瞬だけ襲った細い悲鳴が再び現れたからだ。
「マンヴリック?」
急に口を噤んで、テーブルの上で俯いてしまうマンヴリック。その顔をレンヌは首を傾けて覗き込んだ。額を青白くするくせに心配をかけまいと笑顔を無理矢理に拵えようとする辺り、彼は母親にそっくりだった。
「ご、ごめん。なんか、胃が痛……」
苦笑いを浮かべるマンヴリックの言葉を聞くと、ローレンス氏は嘆くような息を紅い水面に吐きつけた。ティーカップをソーサーに預けて椅子から腰を浮かせ、少年の肩を押さえて席につかせる。
「胃痛とか頭痛とかって癖になるんだよな、可哀想に。いったんなると事ある毎に……」
「ほ、ほんとですか?」
今の当主の代になってから、クランスター伯爵家の不穏な噂など聞いたことがなかったのに。ローレンス氏は首を傾げて考えあぐねた。
「この前はよく喋ってたのにな、サイマン君」
その時、屋敷に入る扉が開いて、伯爵邸の女中が庭に出てきた。その視線でアンナを見つけ、植え込みに挟まれた小径を小走りに入ってくる。
四阿の屋根の色を反射して金色に透ける日影の手前で、彼女は軽く膝を折って会釈をした。
「奥様、失礼致します」
「なぁに、お客様がお見えになっている時に」
アンナはなんとか顔を上げて女中をあしらった。レストランで注文したメニューと別の食事が出てきて取り替えてくれと言い出しにくい時のような顔をして、女中は言い澱んだ。
「申し訳ございません、奥様。今し方サイマン様がお帰りになられて……」
マンヴリックが折り曲げていた背を貫かれたように伸ばすのと同時に、アンナは素早く寝椅子から立ち上がった。気持ちの整理をしていないまま素直に喜ぶことができないようで、言葉を急いたり言い直したりする。
「本当に? ここへ来るよう言って……いいえ、そっちへ行くわ。玄関にいる? 部屋に戻った? ヴァルドロン様、申し訳ないんですけど私ちょっと席を――」
「いえ、お客様がいらしていると申し上げましたら、今こちらへいらっしゃると……」
マンヴリックは訊き返したいような面持ちで女中を見上げた。今朝尋ねた時の兄の様子とまだ十二分に明るい空色とはとても釣り合いが取れない。
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