第7幕第1場「ジュエリーボックス」

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第7幕第1場「ジュエリーボックス」

 水錆を纏ったシャワーヘッドから降る雨が、壁のタイルの目地を伝って這い下りる。  湯気は深い海の底を漂う海月のように膨れては破れて、神の寵愛を独占するに相応しい少年の姿態を覆う。細い髪の張りつく額に被った湯が、瞼の膨らみをゆるりと下りて、翼のような睫の先に丸い小さな雫をつくると、間の長い瞬きに振り落とされて頬の上を伝い落ちた。  運命の学会を前に風呂などとは、随分と暢気にやっているものだと、彼の中の彼は嗤ってもいた。胸を締め上げるような不安と、そして期待が呼び起こす薄暗い昂揚を紛らわすのに、他に手近な手段が見当たらなかったのだ。落ち着かなさが子供のようで、自分に嫌気が差す。  白い腕を委ねた壁から伝わる微かな熱は一瞬で消え、その奥から肌の粟立つような冷たさが上り詰めてくる。手を額へ遣ったかと思うと、彼は濡れた髪を指に絡みつけて苛立たしげに掻き上げた。 「ああ、くそ……!」 コックに手を伸ばして湯を止めると、ガラス戸を乱暴に引き開けて、毛の太いバスマットの上に下りる。無造作に置いてあったバスタオルを手に取った拍子に洗面台に飾られた薔薇の花を掠め、紅い花弁がひとひら、タオルの輪奈の上についてくる。  温められた肌と髪から匂い立つ魅するような薔薇の馨りが、湿った暖気と共に冷めきった居間に流れた。  浴室を出て一本脚の小さなテーブルに直行すると、彼は右手で掻き乱すように髪を拭いながらもう片手でグラスに水を注いだ。鳥の嘴のような水差しの表面に浮いた汗が、テーブルに散らかされたハンカチを濡らす。ハンカチの襞の中に転がった小瓶を拾い、アセチルサリチル酸の錠剤をいい加減に掌へ移し、口内へ放り込んで拘泥なく流し込む。冷水はまだ氷混じりで、熱い喉を切るように通って胸へと下りていく。  薬の効果によってではなく、薬物を服用したからという病人ならではの安心感を得た彼は、尚も残る米神の鈍痛に顔を歪めた。  置き時計の針を見遣ると、入念に体を拭く暇もなくクローゼットへ飛びつく。木製のハンガーに掛かった服の中から迷わず取り出した白衣を、そして喪服のような黒無地のネクタイを次々とソファに放る。  薔薇色に火照った体が、戸の内側につけられた鏡にそっくり映る。シャツに袖を通し、洗いたての髪に手櫛を通し、トラウザーズのポケットに入れたままになっていた細いリボンで無造作に括る。  吸い込もうとするような暗いクローゼットから跳び退いて、次に彼が急いだのはシェルフの前だ。物の極端に少ない部屋の中でぽつり、置き去りにされたような存在感を纏う六角形の小箱が、そこにあった。  蜂の巣のようなジュエリーボックス。どこだかの有閑な小貴族と一緒だった時に、これは可愛いなと目に留めて買ってもらったものだった。  その貴族の男はどこか頭がおかしいところがあった。月のない晩、贋物の恋の褥でナイフを突きつけられて逃げて以来、その男には会っていない。果たして独りで死ねたのだろうかとふと思うことはあっても、確かめになど行きたくもなかった。  そんな曰くつきの箱から真珠のピアスを摘み上げると、グノーズは慣れた手つきでそれを身につけた。 淡く冷たい七色の閃きが、耳元で音もなく揺れる。
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