8人が本棚に入れています
本棚に追加
第7幕第4場「逃亡」
浅く張り出した露台に橙色の明かりが燈る。鈍い光が差す部屋で、イフェニスは硬い椅子に座らせられた。
夜はもう近い。高い背もたれに寄りかかることもなく体を丸めて塞ぎ込んだ彼女を置いて、男は戸口から薄暗い廊下を見回した。
「施設の中にいるのか?」
「いえ、頭に血が昇っているようでしたので。外へ放り出したら大人しく出掛けていきましたが」
よく飼い慣らされたスタッフはただ答える。幹部の男は二人、互いに一瞥だけ視線を交わした。
「市壁の外に出ていないだろうな。今日は駅もゲートも往来が烈しいからな……」
大義そうに吐息を漏らすガーフィールド卿を追うともなく追って、ルクリース卿も手をポケットに入れて廊下に出ていった。探せということだと解釈したスタッフは、彼らの後について部屋を立ち去った。
独りで逃げ出す気力など湧くはずないのにと、外側から鍵の閉まる硬音を聞いて自嘲気味に思い耽る。イフェニスは、遠のく靴音に聞き入って、瞼を伏せた。ただ考えるのにも疲れ、億劫で、迫る夜も静寂も、今は自分を放っておいてくれるだけ有り難いと思った。
どれだけ経ったかはわからない。瞼の裏に透けて見える灯りが暗くなった気がしたが、油が尽きたのだろうとさえ考えなかった。
しかし時計の針の足音に窓を小突く音が重なった時、イフェニスは呼ばれたように顔を上げた。灯りを遮る少年の陰が、逆光の中から目に飛び込んでくる。
イフェニスは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。絡れる足で窓に駆け寄り、ガラス越しに彼の首に抱きつく。
「グノーズ! ごめんなさい、わたし……!」
その言葉は窓に遮られて正確に聞き取ることはかなわなかったろう。けれど、グノーズは彼女を宥めるように、夕闇に紛れがちな瞳で微笑んで見せた。彼のその表情を見ると、イフェニスは心得たように指を桟に滑らせて窓のロックを外そうとした。
彼女が開錠にもたつくと、グノーズは窓を小突いて後ろへ下がるよう促した。彼から離れた途端、背後に伸びた自分の影に呑まれるような気がして躊躇う。
彼女は前下がりの横髪を振り揺らした。靴裏を引き摺るようにして、椅子の後ろへ退く。グノーズは捲り上げていた白衣の袖を引き下ろし、肩を頬に押し当てるように引きつける。
見た目より薄いようなガラスの散る音が耳障りなほど大きく響く。イフェニスは反射的に扉を振り返った。グノーズは窓枠のあいだから手を入れて窓を開けた。格子から氷柱のように突き出たガラス片が白い肌をさっと切る。
「早く!」
部屋に雪崩れ込む涼風の中に身を乗り出して、彼は手を差し伸べた。
イフェニスはびくりと肩を竦めた。床に赤い雫が溜まる。それを見てようやく、グノーズは彼女を脅かしていることに気づいた。赤い筋の走る腕を引いて、逆の手を差し出して囁く。微笑の混じる温い声で。
「イフェニス、外へ行こ。約束しただろ?
もうすぐ、雨が降る……」
最初のコメントを投稿しよう!