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異例のスピードで発行された学会広報の号外を使用人が持ち帰ったのは、雨の降り出した後だった。
長年魔力開発の課題のひとつとなっていたのが魔力機関の構想だ。魔力を魔力保持者の精神を介さずにエネルギー化するその手法は、従来の化石燃料によるエネルギー供給に代わって人類に多大な恩恵をもたらすことを期待されている。
そんな研究が、研究団ベルントリクスにおいて遂に完成を見たと。そしてその開発者としてイフェニス・アレンダルの名を一枚の紙が告げ知らせた時、マンヴリックは己の目を疑った。
サイマンは一言も発さず研究都市へ急ごうとしたが、母親に縋りつかれて仕方なく屋敷に留まっていた。号外を隅から隅まで読み直すと、グノーズ・オーカーが学会の中盤を過ぎて一騒ぎ起こしたらしい。冷静に考えれば今駆けつけたところで彼らに会わせてもらえるわけはなかった。
確かにイフェニスはネクタイを締めてはいた。けれど、マンヴリックは驚愕するより先に危うく失笑するところであった。縹色のスケッチブックを抱き締めた少女と研究職とをどうにかこうにか結びつけようとするが、両者の接点がまるで見出せない。
最近絶えて見る機会のなかった室内着姿のサイマンが、読み進まない本を閉じて寝返りを打とうとした。仔猫は小さな爪を服に立てたが、甲斐なく彼の背中から滑り落ちた。
気づいたような顔をして、サイマンは仔猫の柔らかい体を掬い上げた。ソファの上に身を起こして膝のあいだにそれを乗せると、小さな両の前足を人差し指の上に取って、体を軽く揺すってやる。
一見して猫と遊んでいるかのような彼。いや、客観的には確かに猫と遊んでいるのだが、いつも変化のないその顔の上に険のある表情が入り混じるのを見ていると、胃が痛いからベッドを借りてもいいかとは言い出し難かった。マンヴリックは椅子の上で体を屈め、腹を摩るように緩く握った。
気分の浮かない顔をして丸まっている弟を見止めると、サイマンは仔猫を抱えてソファの上から伸び上がった。
「どうかした……?」
「うん、いや……お茶遅いねって思って」
マンヴリックは壁掛け時計を見て言う。皆でナイトティーを飲みたいからと母に言われて待っているのだが、いつまで経ってもお呼びが掛からない。体調が良くないなら着替えてさっさと寝てしまったほうがいいかもしれないが、母がもし兄とこの頃不穏な家庭事情の話をしたいのなら、マンヴリックもその場に居りたいと思うのだった。
一方サイマンは、気の滅入るような予感を果たして抱かないわけではない。けれど、さてどうしたものかなくらいにしか、少なくとも今この場では困っていなかった。
その日は彼らの父親であるクランスター伯爵は領外の用事のために家を空けていたから、サイマンは自身の問題を真に迫ったものとして感じていなかった。そうしてできた心の隙間に、ベルントリクスの壁の中に閉じ込められているグノーズとイフェニスの存在が流れ込む。まるで天の滂沱のような大雨の夜に、彼らはどうしてやり過ごしているだろうかと。
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