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夜の十時が近づいた時、ようやく部屋に戸を叩く音があった。返事はすれども扉を開けてやらないでおくと、扉越しに聞き取りづらい従僕の男の声がした。
「失礼致します、奥様がエントランスホールでお待ちです」
居間の間違いではと、サイマンとマンヴリックは首を傾げた。従僕が立ち去ろうとする気配にマンヴリックは慌てて声をかけた。
「オレもこっちにいるよ」
下の令息にも伝えに行こうとしていた従僕は、扉の前に戻って待つことにしたようだ。サイマンはソファの足元に置いていたバスケットのタオルの中に仔猫を下ろすと、金細工のチャームがぶら下がったブックマークが挟んである本を取り上げて肩に乗せた。
椅子の背に回り込む彼を目で追うだけで、マンヴリックはすぐに動けなかった。返事のわりには椅子から腰を上げない弟を見返して、サイマンは微かに眉を顰めた。
「やっぱり、どうかした?」
兄の視線から逃れるように、マンヴリックは胃を温めていた手を首筋へ逃した。飴色のテリアが猫達の間を縫ってやって来て、椅子の足元でくんくんと憐れみ声を出す。
「別にどうもしてないよ?」
「夕食も進まないみたいだったし、しんどそう」
「そう? じゃあ風邪ひいたのかも」
サイマンは本を持ったほうの腕を下ろし、もう片手を自身の肋骨の下に当てて見せた。嘘や隠し事のできない弟が狼狽えるのを見て、浅い溜め息をつく。
「胃が痛いって、顔に書いてある」
マンヴリックが誤魔化し笑いでお茶を濁そうとすると、サイマンは弟の手から号外を引っ手繰ってカーディガンのポケットにぐしゃりと突っ込んだ。マンヴリックの腋に腕を回して彼を椅子から引き下ろす。
「うわっ!?」
「夜更かししないで寝ろ」
逃れようともがくマンヴリックを引き摺って扉を開けると、控えの間の先で扉を押さえて待っていた従僕が目をまるくする。
「こいつの部屋の水、温いのに差し替えて、テプレノン持っていってやれ。――お前、あんまり寝れないくらいだったら薬飲んどけ」
「お茶がまだ!」
「茶くらい今度でいいだろ」
「一緒に飲むんだってば!」
「学士院が始まったらカフェでも誘ってやるから寝ろ」
犬猫の鳴き声以外に騒音のない伯爵家の屋敷で息子たちの騒ぎ声がするのは珍しい事だった。それを聞きつけたからかどうかは定かでないが、その時アンナが階段を上がって来た。
「あら、何してるの? 仲良しこよしねぇ」
元より引き摺らない性格の彼女は、昼下がりの茶会の憂鬱をとうに追い払ってしまったらしい。サイマンにとって母の発言というのは傍迷惑な時もしばしばあった。
胃痛が夜まで続いていることを彼女には言っていなくて、マンヴリックはサイマンを一睨して牽制しておいた。腕を緩めて弟を放すと、サイマンは気遣わしげに窓辺を見遣るアンナを見る。
「とりあえず下へ降りてきてちょうだい。お茶の用意はできてるのだけど、あちらがいらっしゃらなくて」
あちらとはどちらだと、サイマンはマンヴリックに目配せした。マンヴリックは首を横に振り、足元のテリアに目配せする。ライが知るわけはないのでその反応は見届けずに、サイマンは再び顔を上げた。ゆったりとしたワンピースに身を包んだアンナは、食後のデザートを楽しみにでもしているかのように表情を緩めた。
「実はね、今夜は秘密のお客様があるのよ。天気が酷いから心配」
サイマンが早く帰ってくるなら夕食をご一緒していただいてもよかったわねと、彼女は頬を片手に乗せて唸る。
「畏まる必要のない方だから、そのままでいいわよ」
そう言ったのとちょうど同時に、階段の下から使用人の声がかかった。
「奥様。お客様がお見えになりましたので、応接間にお通し致しました」
「そう! 今行くわ、先にお茶を出して差し上げて。さあ、サイマン、マンヴリック」
アンナはうきうきした様子で折り返しの階段を降りて行った。サイマンはマンヴリックを部屋に寝かせて来ようかと思ったが、弟がカーディガンの裾を握り締めてくるので、諦めてそのままくっつけて行くことにした。
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