第8幕第2場「ミレイユ・ドクマー」

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第8幕第2場「ミレイユ・ドクマー」

 客の話し相手をすることがえらく苦手な人種であることを、サイマンは忘れていた。そんな苦労性なのだか暢気なのだかわからない彼は、いざ応接間に来てみると素早く踵を返すことになった。  つい逃げ出そうとする彼を、マンヴリックがカーディガンを掴んで引き止める。 「逃げてやるなよ……」  応接間のソファに腰掛けて待ち受けていた客人は、サイマンにもマンヴリックにも馴染みの顔である。彼女はサイマンの姿を見つけるなり、元から大きな瞳を殊更に輝かせた。巻いた葡萄酒色の髪を揺らしてさっと立ち上がる。 「サイマン! お邪魔してます」 本当はもっとはしゃぎたい気持ちを抑えているのが桃色の頬の明るさから伝わる。マンヴリックは扉の前で足を止めた兄を隣に引き寄せた。 「こんばんは。来るの大変だったでしょ」 「ええ、すごい雨! でも玄関下まで馬車を引き入れていただいたから濡れなくて済んだわ」 間延びした声が興奮したように高くなっていた。彼女は早く兄と話したいのだろうなと思って、マンヴリックは彼女の向かいのソファの隅に腰を下ろして足元のテリアを撫でた。  サイマンは若干の抵抗を示したが、客を前に逃亡というわけにもいかないと思い直したのか、黙って弟の隣に座った。  彼が真向かいに来ると、葡萄酒色の髪の少女はほんの少しだけ緊張したように見えた。背筋をぴんと伸ばして、ティーカップを膝の上で支える。  彼があんまり何も言わないでいると、アンナは彼の膝を叩くような仕草をした。 「もう、ご挨拶くらいちゃんとしてよ」 オレは五歳児か、とサイマンは思った。腕を組んでつんとしている彼の無愛想さを詫びるように、アンナは笑顔で少女に弁解した。 「来てくれて嬉しいわ、ミレイユちゃん。ドクマーさんはお変わりない?」  ――――今宵の来客の少女は、名前をミレイユ・ドクマーという。”三番目の大地”はディンゲルラント連邦に拠点をもつ、銀行家ドクマーの三女だ。ドクマー夫妻に伴って上流層の社交場にまめに顔を出しているのに、彼女がサイマンに会うのは半年ぶりのことだった。  お兄さんは? ――母に連れられてパーティーに出席するたびにそう尋ねられるマンヴリックは、そんな時分いつも苦笑して返すしかなかった。社交界に集まる面々の注目は、兄のサイマンのほうにある。なぜかと言えば、彼がクランスター伯爵家の次期当主だからであり、さらに言えば左手の薬指が空いているからだ。  優雅な微笑を浮かべて近づいてくる人々が腹に抱いている要求に気付いているからこそ、サイマンは表に出てこないのだ。そして、そんな気味の悪い人々の中に、ドクマー夫妻は含まれていた。  マンヴリックは爽やかなパッションフラワーのブレンドティーで胃痛を紛らわせながら、ミレイユに声をかけた。 「珍しいね、一人?」 彼女のそばにはドクマー夫妻がいて、サイマンと握手を交わしたがるのが常なのだが。ミレイユは、うんと確かな相槌を打った。 「御者がいるだけよ。連れてきた小間使いはおうちのほうで……」 「え、なに?」 ミレイユは如何にも踊る胸を抑えている様子で、本題を焦ったらしい。訊き返すマンヴリックを見て、落ち着かなげにティーカップの持ち手に指を滑らせる。 「こっちに来たばかりなの。あの、……あのね」 どこから話を始めようかと、もじもじするミレイユ。彼女を見ているうちに、マンヴリックはその服装が気になってきた。 ミレイユといえば彼女の故郷でよく見られるマーメイドラインのスカートを好んで身につけている気がするのだが、今夜はふわりと広がったスカートの布地が膝の周りで余っている。 「珍しいといえば、どうしたの? いつもの格好じゃないね」 「マンヴリック君も珍しいわ、部屋着。サイマンも……おうちではそういう格好もするのね」 最後のほうはほとんど独り言のつもりでそう呟きながら、ミレイユは左手の指先を顎の上に添えて、サイマンの姿をじっと見つめた。  見られていると居辛くなるサイマンは、ティーカップをテーブルの上から引き取るとソファの背に半身を引いた。ミレイユの兎のような黒目がちの目が、甘い夢でも見ているかのように潤む。 「ぴしっとしてるのも素敵だけど、部屋着姿はレアね! 遅い時間にお邪魔させてもらえて得しちゃった〜」 飲みかけた茶を喉に詰まらせたような顔をするサイマン。口から下をカップの陰に隠したまま一瞥する彼に、ミレイユは胸に込み上げてくる歓びが収まらなくてへらへらしていた。
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