第8幕第2場「ミレイユ・ドクマー」

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 親の陰謀はともかくとして、ミレイユが彼のことを憎からず思っているのをマンヴリックは知っている。彼女の直情的な言動を見ていれば一目瞭然というものだが、これがどうして本人には大して伝わっていなかった。  芳しい反応をくれないサイマンが冷酷な人間というわけではないということを、ミレイユは理解していた。愛想笑いもなく脚を組んでいるその姿、清潔感のある小麦色の短髪、結んだ口元と凛と引き締まった眉がつくる涼やかな風貌。そして、どこを見ているやらわかりにくい、爽やかな風が吹く薄明の空のような瞳……――その瞳はよく見ると左右で微かに色味が異なる。彼の眼差しのどこか引き込まれるような印象は、この芸術的な左右非対称から来ているのだ。ミレイユはティーソーサーをテーブルへ除けながら、自分でも知らないうちに嘆息した。 「(なんて王子様みたいな人なのかしら、サイマン……)」 サイマン、と、心の中で彼の名を呟いた時、ミレイユは胸の奥に温かな仄灯りがぽっと燈るのを感じた。その熱は血を伝って頬に昇り、頬を越して頭に上り、まるで体を宙に舞い上がらせる。  なんて素敵な響きなのかしら、彼の名前はまるで美しい月の晩に聴く小夜曲みたい。表の嵐なんて一吹きだわ、と、そう想いに耽って彼の名前を何度も繰り返すうち、ミレイユはどうにも頬を押し上げる圧力に抗し難くて困った。 「ミレイユちゃん、素敵なニュースを持ってきてくれたんでしょう? サイマン達に教えてあげてくれる?」  向けられる笑顔に不穏なものを見る目を返していたサイマンを見て、アンナは慰めるように微笑を零した。よく熟れた林檎のように頬を染めて一家の長男を見つめていたミレイユは、あっと声を上げて脳内のお花畑から引き返してくる。 「そうなの! サイマン、これを見て!」 ミレイユが背中に敷いていた封書から取り出して広げた中身を、サイマンは蛇でも出てくるのではないかと距離をとったまま眺めた。  さらりとした艶のある純白の高級紙には、装飾的な縁取りの中に「編入試験合格通知」の太字が踊っている。  だらだらと続く印字を読み飛ばして目に飛び込んだ見覚えのある校章。マンヴリックは何も言わない兄の隣から身を乗り出して、証書とミレイユの顔を交互に見比べた。 「ミレイユ、編入するの!?」 「秋からね。だからベルントリクスに引っ越して来たの。今日は家の片付けがあるから来れなかったけど、落ち着いたらママもご挨拶に伺うから……」 彼女はいそいそと手鞄からケースを取り出して、小さなアドレスカードをサイマンとマンヴリックとに手渡した。住所はこのクランスター邸がある丘の麓に広がる学園都市クローヴィンス内だ。  ということは、彼女は学士院の敷地内にある寮に入るのではなくセカンドハウス生活をするのだろうと、マンヴリックは想像した。 「ドクマーさんたちは一緒なの?」 「いえ、ママだけよ。パパはお仕事があるから離れられないし、モールフィお姉様は向こうのカレッジだし、カルメンお姉様はどこかで馬乗り回してて帰ってこないし」  はっきりしない相槌を打ちながら、マンヴリックはそれにしてもと考えた。ディンゲルラントのお嬢様カレッジとベルントリクスの国立学士院では、学力差が云々という以前に講義の内容がまるで違うはずだ。半信半疑なマンヴリックを見て、ミレイユは弾むように笑った。 「二年もかかっちゃった。けど、これでやっとサイマンの近くにいられるわ」  何の催促というつもりはないが、マンヴリックはサイマンをちらりと盗み見る。彼はミレイユから証書を受け取って一通り眺めると、それを返す時にようやく彼女と目を合わせた。 「頑張ったな」 「サイマンのお嫁さんになるために一生懸命勉強したの!」 そんなところだろうとは思っていて、マンヴリックは今更呆れもしなかった。 「そんなくだらん理由でよく受かったな」 「くだらなくない! 筆記は危なかったけど、面接は熱意が大事なのよ」 「……まさか面接でそれ言ったわけじゃないよな」 「他に言う事ないじゃないの、私」 マンヴリックはミレイユの得意げな笑顔を見た。苦笑いを浮かべながら兄の表情を窺うと、彼は勘弁してくれという様子で目を逸らした。これは新年度が始まったら災難だろう。サイマンの裾を飴色のテリアが出し抜けに食む。 「ライがもう少し気の利いた褒め言葉かけてやれよって言ってるよ?」 「勝手に犬に言わすな」 飴色のテリアは高く縋るような声で吼えた。
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