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その時、黒木の扉を叩く音がしたが、応接間の笑声に音はほとんど消えた。返事も待たずに開く扉に、最初はアンナだけが気づく。
料理長と共に十年以上クランスター家の台所を預かっている家政婦長が、慣れた様子で談笑の中へ切り込んできた。
「失礼致します、奥様。人が尋ねていらしてます」
今日は昼間のローレンス氏と今夜のミレイユ以外に来客の予定はなかった。しかもこんな大雨の夜にと家政婦長が怪訝な表情を浮かべているのを、アンナは和やかな応接間の空気に当てられて重く受け取らなかった。
「あら、一体どなた? 上がってもらって」
「よろしいのですか? 素性のよくわからない子供ですが……」
家政婦長は言いながら首を大仰に振り動かして、そして一家の継嗣の冴えた瞳を窺った。
「サイマン様にお会いしたいと言ってるんですけどねぇ」
ティーカップを下ろすとハーブティーの水面が揺れて、草木のような青さの中に微かに混じる甘い香りが遠ざかる。サイマンは僅かに眉を顰めた。
「子供?」
「ええ、サイマン様と変わらないくらいだと思いますけど。勝手口にノックがあって、こんな天気のこんな時間におかしいでしょう、男達を呼んで開けたんですよ。そしたらびしょ濡れの二人連れがいて、方っぽはやたら綺麗な男の子で」
最後まで聞かないうちに、サイマンは音も立てずに席を立った。彼の顔色を見た瞬間、マンヴリックの脳裏にも恐らくは兄と同じ予感が滑り込む。
「ちょっと行ってくる」
サイマンは自然と低くなる声で短く断ると、振り返る家政婦長の脇を掠めて部屋を飛び出した。飴色のテリアがその後を追って扉を擦り抜けた時、マンヴリックもカップを鳴らせて慌てて席を離れる。
「サイマン! オレも行く!」
声すら出なかったアンナの手は行方を失って宙に止まる。開け放たれた扉の向こうに、一瞬の稲光が鎧戸の隙間から差した。
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