第8幕第3場「翼のない天使」

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第8幕第3場「翼のない天使」

 酷くなる雨足はまるで銃弾が降り注いでくるようだった。隙間のない雫の束が煙となって灰色の地面を覆い、僅かな傾斜の上でうねる雨水の波頭と谷間とを金木犀の花が巡るのを、勝手口の扉から流れる光が赤く照らし出している。  神経を蝕むような雨音の中、厨房に集まった使用人たちが不安げにどよめいていた。不意の物音に振り向くと、互いの袖を引き合って道を開ける。  框に掌の付け根を押し当てて勢いを殺し、サイマンは呼吸を乱したまま厨房へ入った。ごとごとと鳴る床板の上を彼は大股で急ぐ。  勝手口の扉に体を預けてようやく立っている人影。その背には白衣の塊が覗いて、まるで濡れて羽ばたくことのできない翼を引き摺っているように見えた。  あまりのことに咄嗟に声が出ない。  雫の滴る髪を耳の後ろへ除けて顔を上げた少年と、苦労もなく目が合う。彼はふっと過ぎ去るように微笑(わら)った。色の抜けた頬で。  その愛想微笑いに刺されたかのように、胸が軋む。 「サイマン……」  吹き込む雨に紛れ、蚊の鳴くような震えた声が闇の中から聞こえた。少年の肩に隠れていたもうひとつの人影が、その頭から被った白衣を持ち上げる。何者かに怯えているような蒼い瞳が覗いた。イフェニス、と、サイマンがその名を呼ぶのを視線で止めて、少女は導くように目を下ろす。  大きな雨粒の中に閉じ込められた薄赤い色彩。プリズムの中に燻る光のように蠢いたかと思うと、少年の足元に擦り寄ったテリアの毛の上に零れ落ちる。  サイマンは強張った顔をして彼を凝視する。背後からミレイユが息を呑む音と、そしてマンヴリックの驚愕の声が飛び込んだ。 「グノーズ、イ――! 」 サイマンは弟を一瞥して黙らせた。使用人の一人が戸惑いながら差し出したタオルを受け取る。それをグノーズの左腕に被せると、その肩を引いて彼らを家の中に入れた。 「ごめん、サイマン」 「うるさい。とにかく手当てしないと……」  厨房には遅れてアンナが駆けつけたところだった。両手で口を覆って立ち尽くすミレイユの肩越しにその光景を目の当たりにし、息ばかりの声を高める。 「グノーズ君じゃないの!? あなた達、バスルームを使えるように、急いで!」 アンナがそこらにいる使用人を誰と構わずせっつくと、女中の数人がピナフォアの長い裾を持ち上げて、ばたばたと駆けて行った。  グノーズは片腕をサイマンに預けた状態で、髪を引き摺るようにして頭を上げる。 「こんばんは、アンナさん。図々しいんですけど、シャワーならこいつのほう入れてやってくれませんか?」 意識も危うい有様で笑顔をつくって、力のほとんど入らない腕でイフェニスを前に押しやる。彼女はグノーズと離れるのを恐れるように振り向いたが、彼が頷くのに従ってアンナの手に連れられて行った。  サイマンはグノーズの体を引き上げるようにして支えた。声に乗りそうになる動揺を隠しながら。 「何があったんだ? ベルントリクスから逃げてきたのか? グ――」 「ごめ……、少し寝かして、気分、悪……」 グノーズは、まるで嘔吐を耐えるように、緩んだネクタイごと胸元を強く握り締めた。絞るように懇願すると最後、屈めたその体がずるりと落ちる。 「グノーズ!!」  床に足首を掴まれたかのように動けなくなっていたマンヴリックが、ようやく駆け寄って手を貸そうとする。  彼はまだ意識を手放していなかった。しとどに濡れ、俯いた顔は元の白さを通り越して蒼白で、雨と汗の区別がつかない。その仔猫のような高めの体温を知っているサイマンの胸にもたれてくる体は、今や氷のように冷たくなっていた。
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