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きっかけは些細なことだった。
その日サラダにのせていた私が大好きなトマトを、彼が嫌そうな顔をしながらお皿の端に避けたことも、もしかしたら関係あったのかもしれない。
自分がこんなに「美味しい」と思うものを、相手は全く正反対の「美味しくない」という感情で受け取る。
避けられたトマトをぼんやり見て、不思議だと思った。
私たちは無言で向かい合いご飯を食べながら、机の横に置いてあるテレビを見ていた。
テレビの音がこの空白の時間を、見えないパズルのピースをはめるようにして埋めてくれる。
向かいには同棲したばかりの彼氏が、テレビをぼーっと見ながら、私が作ったハヤシライスとコンソメスープとサラダを機械的に口に運んでいる。おいしいともまずいとも言わない。
ご飯は死なない程度に適当に食べれば良いという考えの彼に、この先色々なものを作ったところで何になるのかということをぼんやり考える。
同棲前に意気込んで買った料理本をまとめて資源ゴミで捨てたい気持ちだった。
順調に付き合えていたと思っても、一緒に住んでから、「こんなはずじゃなかった」と思うことが増えた。
自分が普通だと思っていることを、相手ができなかったり、やらなかったりすると、それが本当に小さいことでもイライラしてしまう。
「皆さんはベンハムのコマって知ってますか??」
テレビの中で、最近人気のモノマネ芸人がスクリーンに映った図を指差しながら、こちらに問いかけてきている。
「ものの見え方」というタイトルで、特集が組まれていて、テレビの画面に二重丸が映っていた。中の円と右半分が黒くぬりつぶされ、左半分は規則性があるのかないのかよくわからない線が何本も入っていた。
「これを高速で回転させると、ところどころある色が見えるみたいなんです!テレビの前のあなたにはどんな色が見えるでしょうか…??」
芸人が喋り終わると、画面の二重丸が高速で回転し始めた。
回っている円の所々から、微かな色が見える。
「ねぇ」
テレビの画面に目を向けていた彼に声をかける。
「何色に見えた?」
何でこんなことを聞いてみようと思ったのかわからない。会話をしたかったのか、単純に興味が出たからなのか。少し時間が経ってしまうと自分のことも曖昧で曇りガラス越しに覗いているような感覚に陥ってしまう。
「俺は青に見えたけど?」
テレビから一瞬私の方に目を向けて、小さな声で呟いた。
その時、突然頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を感じた。
番組のゲストで来ているアイドル何人かが「私は青に見えましたよー!」「私は黄色に見えましたー」とコメントしている声が遠くから聞こえてくる。
麦茶を入れたグラスが汗をかいて、机に水たまりを作っている。
「ベンハムのコマは見る人によって違う色が見えるみたいです。なぜ白と黒しか使われてない円を回すと色が見えるのか、それが人によって違う色に見えるのかは未だによくわかってないらしいですよ!」
「見る人によって色が違うなんて面白い!」
「すごいですね!たしかに今日スタジオにいる人の中でも見えた色違いましたもんね!」
人によって見える色が違くて面白い。
ただ、自分が見たり感じたりしている世界を全く同じ温度で、同じ色彩で、同じ目線で感じてくれる人はいないということを思い知ってしまった。
目の前の彼を見る。
一緒に海に行って、旅行に行って、何食というご飯を一緒に食べてきたけれど、実は一つも同じレベルで共有できてなかったのだと今更思う。
同じ「きれい」という言葉には、私の思っている「きれい」と、彼の思ってる「きれい」がある。私は100だと思っていても、彼は40しか思ってないかもしれない。でも言葉に出すと、それは「きれい」という同じ言葉に集約される。
そんなのずっと前から分かっていたはずなのに、突然誰もいない島に放り出されたような深い孤独を感じた。
私は無言で食べ終わった食器を手にとり、シンクに置いた。少し水を出して、お皿を浸す。水を止めると蛇口からポタポタと水が一定間隔のリズムで滴り落ちた。
「私は黄色に見えたよ」
この一言を口に出して笑い合えば、どんなに楽だっただろうか。
結局皆一人なのだ。こんなに近くにいても「他人」なのだ。
今まで考えずに蓋をしてきた部分が、突然割られて粉々になったみたいだった。
私は台所に立ったまま静かに泣いた。
涙の理由はきっと彼にはわからない。
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