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10
「白神さん、あの、僕には一体何を言っているのか――」
口を挟みかけた僕の肩を白神さんは両手でギュッと抑えた。
華奢に見えて存外に力があったので僕はすんでのところで『痛い』と叫んでしまうところだった。
「さあ、まずは心置きなくザッハートルテを頂こうではないか。話はそれからだ」
青年がテーブルに珈琲と一緒に並べた皿には円形で高さがある艶々とした黒い滑らかな石のようなものが乗っていた。
「これが……『例のもの』何ですか?」
何となくもっと怪しい品物――秘密めいた手紙や書類、あるいは鍵のかかった小箱のようなものを想像していた僕には拍子抜けだった。
「そうだよ。このカフェー『シェーンブルン』のマスターが作ったザッハートルテだ。滅多に食べられない逸品だよ」
なんとも濃厚で華やかな甘い匂いに、僕はザッハートルテが西洋菓子であることに気づいたのだった。
そういえば独逸語で"torte"は円形の菓子の意味だと教わったことがあった。
円形の菓子と言っても僕には煎餅や饅頭くらいしか馴染みがないため、昔聞いた時にはどうもピンとこなかった記憶がある。
「では、お取りわけしますね」
青年が小型のナイフ――西洋料理用のナイフとは違うようだから、きっとそれ専用のナイフなんだろう――でもって鮮やかに円形に十字を入れて四つに切り分けた。
僕の目の前に供された一皿をぢっと観察すると表面は滑らかでまったく継ぎ目や凹凸が見当たらない。
断面は表面よりは薄い茶色になっていて真ん中の色がほんの少し変わっていることから、そこだけ何か具材が異なっているらしかった。
「クリームもおつけしますね」
白い小袋をもった青年がザッハートルテの横に袋の口をあてがうと、純白の白い泡がたちまち現れてこんもりとした山を作った。
「完璧だ。ザッハートルテ ミット ザーネ……これでなけりゃあね」
「mit Sahne......ザーネはクリームでしたよね。牛乳で作るっていう……」
「その通り。明朗君は語学によく通じているけれど、食文化や料理についても詳しいようだね?」
「いえ……そんなこと。実家が軽井沢宿なのですが、たまたま知り合った独逸語の講師が雑談好きだったり、母が身体を悪くしていたので僕が家事を手伝っていたこともあって……」
「ほう? すると君は、家事全般、料理もできるということなのか?」
白神さんの目が異様に輝いたような気がして、僕はたじろいだ。
「はあ、兄二人はもう働いていますし、僕もそんなに嫌ではなく……むしろ料理は好きだったりして」
本職の料理人を除いて『男子厨房ニ入ラズ』と言われる昨今、あまり大っぴらにいえることではないけれどこれは僕の本音だった。
さらに言えば、家の手伝いで西洋人向けのレストランやホテルの厨房に野菜を届ける機会もあった僕は西洋風の台所に興味深かった。
人に借りたりして色々の本を研究するうちに西洋文化への憧れと相まって、特に西洋料理の作り方には特別の注意を払うようになっていったのだ。
そうして培った知識でもって、時おり僕は空想の内に西洋式のキッチンに立ち、贅沢な材料を思う様に使って素晴らしい料理をこしらえたりなぞもしていた。
「素晴らしいことじゃないか。何かができて悪いことはないだろう。至極立派なことだと私は思うよ」
僕の肩をトンと軽く叩いてから、白神さんはいそいそとフォークをとった。
「さ、頂こうじゃないか。日本にいながらにしてウィーンの味が楽しめる……。またとない機会だよ」
「はい、では……」
確かに先ほどから鼻先をくすぐる甘い匂いにすっかり魅惑されていた僕だった。
完全にまた白神さんのペースだ……。
そうは分かっていたものの、先ほど食事に使ったものよりも少し小ぶりで華奢なフォークを手にとった僕の胸は高鳴り始めていた。
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