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 結局僕たちは湯島のあたりでちょうど客を下ろしたばかりの力車を二台見つけると、それに乗って千駄木の白神さんの家へ向かった。  力車に乗るのは生まれて初めてだったこともあって、子供っぽいことだと思うけれど内心お大尽(だいじん)になったような気持になってしまう。  白神家の屋敷は二階建ての瀟洒(しょうしゃ)な洋館だった。  ぐるりと塀に囲まれた敷地は周囲の住宅と較べると少しこぢんまりとしているが門は広く、馬車でも乗り付けられそうな広さの前庭と裏庭まであるようだ。  洋館それ自体は一階、二階とそのまた上の屋根にまで変わった形の窓がいくつもついている。  建物の正面から見て左端に位置する玄関には何かの本の挿絵で見た『板のように平たいチョコレート』によく似た扉がつけられており、その上には弓型の枠の中に花の模様のような立体的な彫り物が施されている。  玄関を開けるとそこは待合のようなちょっとした広間になっていて、絨毯が一枚と背の低い長椅子が壁際に据え付けられていた。 「あ、わが家は靴のままでいいから。そのまま上がってくれ」 「わ……! 中も、完全に洋風なんですね」 「二階の和室以外はね……。さあ、どうぞ」  お邪魔します、と言いながら僕は泥落としをつかって玄関の中に足を踏み入れた。  高価そうな石が敷き詰められた玄関の床でカロン、と下駄が軽やかな音を立てる。  居間の中は中央に大きな楕円形の木製のテーブルと座り心地のよさそうな椅子がテーブルを囲うように配置してあり、大きな出窓にはごく薄い編み模様が入ったカーテンがかけられていた。  火を入れられた壁のランプは百合の花を逆さにしたような優美な形をしており、部屋の中に温かい光を放っている。  意匠や調度の一つ一つが、素晴らしい趣味の持ち主によって選び抜かれたものであることは一目瞭然だった。  ……しかしながら、正直に言ってしまえば、僕を一等、驚かせたものは純西洋風の屋敷でも生活様式でもない。  それは、屋敷の中……特に居間界隈の取っ散らかりぶりだった。  玄関から入ってすぐの小部屋から居間に通されてすぐ、あまりの惨状に僕は文字通り目を丸くして立ち止まった。 「ちょうど前のメイドが出て行って一週間……だったかな? まあ、気にしないで寛いでくれたまえ」  中央のテーブルを取り囲む椅子の背には上衣や洋袴がひっかけられ、テーブルの上には珈琲茶碗がいくつも出しっぱなしになっている。  椅子の上やそこかしこに新聞が散らばり、読みかけであろう様々な紙切れが間に挟まれた本が床の上に不安定に積まれている有様は賽の河原の石積みのようだ。  テーブル脇の椅子の上の新聞紙を取り除けて僕に長椅子に座るように勧めながら、白神さん自身は向かい側の新聞紙が重なったままの椅子にぐしゃりと音を立てながら身を沈めた。 「言っておくけれど、一番酷いのはこの居間と……。後は二階の私の書斎かな?」 「はあ……」 「二階の和室は綺麗なものだよ。一週間かそこら分の塵は積もっているかもしれないが……。自由に使ってくれて構わないよ」 「ええ……ありがとうございます」  その後、白神さんは簡単に一階の他の部屋……応接間に炊事場、風呂場を案内した後、二階に上がると僕を和室に通してくれた。  こんな洋風な家屋の二階に畳の部屋があることに少々驚きながらも、四角い障子戸の向こうに窓があるその部屋は中々に居心地がよさそうだった。 「床の間の横の押し入れに、布団とケットが入っているからね……」  片手で口を覆って大きな欠伸をした後に白神さんは「失敬」と呟いた。 「私はこの後珈琲を淹れて少し仕事をするけど……君はどうする? 一杯つきあうかい?」 「いえ! 僕はもう十分です。これで休ませていただきます」 「そうか。じゃあおやすみ。良い夜を」 「あの……白神さん。本当に今日は……どうもありがとうございました」  深く頭を下げる僕の肩にほっそりとした手が柔らかく触れた。 「お礼なんていいよ。若い時は色々と難儀なことがあるものだからね――」  自分だってまだピカピカの若人であるのに――。  何とも年寄りめいた台詞を口にした後、白神さんは片手をひらひらと泳がせながら僕に背を向けて階下へと去っていった。
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