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03
『魔が差す』というのはきっと僕が白神さんの手を取った瞬間のような、そんな一瞬を指して言うんじゃないだろうか?
綺麗に整えられた爪……西洋文化が身近になって以来、確か『磨爪術』といって上流の男性は爪の手入れをするようになったというけれど……。
マニキュアという化粧を施されているのだろうか。
卵の形に整えられた彼の爪は、点いたばかりの街灯の光を反射して艶々と輝いている。
西洋式の挨拶をよく心得ている人らしく、白神さんは僕の瞳をじっと見つめたまま、きゅっと力を込めて恐る恐る差し出された僕の手を握った。
「握手はしっかりと力をこめて握るものですよ。恥ずかしがって力をいれないのは失礼にあたりますからね」
いつだったか、軽井沢に避暑に来た独逸人講師から受けた助言が頭をよぎった。
ぎゅっと握った白神さんの手は少し冷たくてすべすべしていてその上、掌は柔らかだった。
白神さんの手の柔らかさを意識した瞬間、何だか急に恥ずかしくなってしまって僕は再び俯いてしまった。
普通の握手の場合は、最後は手を離すものだけれど、何故だか白神さんは僕の手を離そうとはしなかった。
「さ、行こうか。行きつけのカフェーが銀座通りにあるんだ」
「ええっ、でも……!」
返事も待たずに、子供にするように僕の手を引くと、白神さんはニヤリと悪戯っぽく笑いかけてきた。
手を引かれている僕はとても颯爽とは言えない足取りで煉瓦敷きの歩道を彼についてよちよちと歩いた。
道幅の広い銀座通りは二階部分にバルコニーがある洋風の煉瓦家屋が立ち並び、歩廊やショーウィンドーといった珍しい建築様式の目白押しだった。
東京に出て来たばかりのお上りさんよろしく、僕も以前に色々と見て回ったことはあるけれど、舶来品を扱う高級そうな店が多くて、とても気が引けてどこかの店に入るなんてことはできなかった。
その銀座通りを白神さんは自分の庭みたいに勝手知ったるようすでズンズンと歩いていく。
すれ違う人の中には、興味深げな表情を浮かべて僕らを振り返る人も幾人かいた。
美青年の白神さんに見惚れている人が大半、その美青年に手を引かれて歩いてる僕を物珍しそうに見る人が若干。
「ここだよ。さあ、入り給え」
あまりに突飛な事態に、舞い上がってしまった僕はどこをどう通ったのか分からぬうちに、目的の店の前に到着していた。
色ガラスをはめた分厚そうな木製のドアが開くと、何だかばかに薄暗い店内が見えた。
「こんばんは、やってるかい?」
「ようこそいらっしゃいました、白神さん」
前髪を後ろに流した背の高い青年が店の奥から現れて挨拶した。
白いシャツにベストを着け、黒の洋袴を着けた彼は白神さんと僕にこれ以上ないくらい柔和な笑顔を向けた。
真っ白な歯を見せて微笑う姿は実直そうに見えるのに、はらりと額に一筋垂れた前髪が何とも言えない『色気』のようなものを醸し出しているように僕には思われた。
「あれ、マスターはまた不在か……今日は『例のもの』はいただけるのかな?」
「ご用意しておりますよ。さ、お席にどうぞ」
白神さんの問いにテキパキと答えると青年は僕たちを店の奥の丸卓子へ案内した。
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