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 柳の木が奏でるサラサラという葉音が耳に心地よかった。  時は夕刻、瀟洒(しょうしゃ)煉瓦(れんが)街にガス灯が煌々(きらきら)と輝き出す頃。  家路を急ぐ人々は歩道を足早に通り過ぎ、逆に遊びに出てきたような人々はフワリフワリと愉しそうに漂っている。  点消方(てんしょうかた)がガス灯に火を入れる様子を眺めながら、そのどちらでもない、居場所さえない僕は柳の影でぢっとしていた。  いろんな人がいるなァ、当たり前か……。  だってここは東京、銀座。  十六の、まだ世間を知らない僕には自分の住む世界の中心のように感じられる場所。  花の都、東京の銀座通りで夕風に吹かれながら、行く当てもなく僕は途方に暮れていた――。  ※※※  長野の田舎から上京してきて間もない僕は、丸の内の三菱一号館をはじめとする赤煉瓦造りのどっしりとした建物群に倫敦(ろんどん)の幻影を見、白木屋のドーム型屋根にまだ見もせぬの伊太利(いたりあ)の面影を感じていた。  足を棒にして連日東京見物に明け暮れ、いっぱしに大都市を闊歩(かっぽ)しているつもりの僕が出した結論は『東京ハ今ヤ日本ノ中心ノミナラズ世界の中心トモ言フベキ都市ナノデハナイカ』というものだった。  興奮してその日見た光景、西洋建築がいかに素晴らしかったか喋り(まく)る僕を見て、千絵子(ちえこ)さんは白い手を口に添えてコロコロと笑ったものだった。 「マァ、明朗(めいろう)さんったら。まるで、世界中を見てきたように仰るのね……」  それはほんの数か月前のことだというのに。  その時と比べてどうだ。この広い東京で、僕に帰る家はない。  世界の中心で、僕は居場所を無くしてしまったのだ。  受験用の本の購入で散財してしまった僕は持ち合わせも少なく、どこか適当な場所に腰を落ち着けることもできない。  銀座煉瓦街をゆく当てもなくうろつき、くたびれ果てて柳の木陰で一休みしているという体たらくだ。  ユラユラと風に揺れる枝葉に心もとない我が身を隠しているつもりだった。  だから、その人が少し離れた場所から僕のことを観察していたなんて思いもよらなかった。 「柳の木陰に幽霊とは古風だね」  それが白神さん――白神(しらかみ) (あきら)さんが僕にかけた最初の一言だった。  大都市東京は行き交う誰もかれもが(せわ)し気で、他人のことを気に留める者などまるでいないように思っていたから意外だった。  柳の影に隠れている僕を注視している人物がいたなどと、思いもよらなかったのだ。  山高帽(やまたかぼう)とは形が違う、前面につばのある鳥打帽を目深に被り、濃灰色(のうかいしょく)の背広に同じ色の洋袴を着けている。  背広の下にはベストとかジレというのだったか、青を基調として複雑に横縞と縦縞が折り重なった格子柄のチョッキが顔をのぞかせている。  一目で、大分生活に余裕がある……裕福な身分の人だということがわかる装いだ。 「はあ……まだ生きてますが」  僕の()頓狂(とんきょう)な返答に柳のカーテンの向こうの相手はプッと噴き出したようだった。  自分でも間抜けな発言だったと思い返し、僕は(うつむ)いて耳まで紅くなった。  いっそ幽霊だったらどんなにいいだろう。  そうしたら今日の寝床に困るなんてこともないのだから。 「揶揄(からか)って悪かったね。君のような人は珍しいから……つい声をかけてしまったんだよ」  優し気に言うその声を聞いて僕はハッとなった。  少年期の声をそのまま有しているような、透き通った高い声。  西洋では『カストラート』という人為的(じんいてき)に少年の声を保つ歌手もいると聞くけれど、彼の声は全くもって大人のそれとは思われなかった。  その声に誘われるように思わず目の前の柳の枝を手繰った僕は目を瞠った。  口の端をほんのりと上げてこちらを見ているのはまるで西洋絵画から抜け出て来たような白皙(はくせき)の青年紳士だったのだ。
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