0人が本棚に入れています
本棚に追加
彼女は夢のために高校を辞めた
『O木A子さん、念願のプロ棋士に』
友達のA子が、新聞に載っていた。紙面に大きく書かれた彼女の名前と、プロ棋士という文面。そして、彼女の写真。アラサーであるにも関わらず、まるで子供のような笑顔がそこにはあった。
記憶と何も変わらない笑顔。それなのに、変わってしまった距離。ポタッ、と彼女の笑顔が滲んだのを見て、自分が泣いていることにやっと気がついた。
これが純粋な嬉し涙だったらよかったのに。私は胸を焼くような黒い感情に、思わず呻いてしまった。
※
「わたし、高校辞めるんだ」
A子と最後に会ったのは、通学途中の電車の中だった。満員電車の窮屈な電車の中でも、彼女の笑顔は未だ記憶の中に鮮明に残っている。
彼女とは小学校の頃から友達だったが、特別に仲が良かったわけではない。たまたま家が近所だったのと、クラスが一緒になることも多かったから、何気なく一緒に行動する時間が多かったのだ。現に、学校では別々のグループだった。
この日も、そんな何気ない日々と同じ一日だと思っていた。彼女とは高校は別だったが、降りる駅は一緒だった。彼女以外の友達も一緒だったが、他の皆は既に先に降りていた。
だから、この話を知っているのは私だけ。
「え、高校辞めてどうするの?」
「将棋のプロになる! プロ棋士になるには、年齢制限があるからね。高校行かないで勉強するって人も多いんだよ? だからわたしも上京して、しばらくは親戚の家でお世話になりつつ将棋の勉強するんだ」
目をキラキラ輝かせるA子。彼女が将棋をやっていたのは知っている。きっかけは当時流行っていた漫画で、彼女は中学の間にみるみる実力をつけて地域の大会で優勝したりしていた。プロになりたがっていたのも知っている。
だが、まさか高校を辞める程の覚悟だったとは思わなかった。
「だから、今日で学校行くの最後。明日引っ越しなんだ。今、すっごくワクワクしてる!」
「そ、そうなんだ」
私は圧倒されて、何も言えなかった。気がついたら、電車は駅に到着していた。
私は北口、彼女は南口に向かう。私は部活をしていたので、帰りに彼女と一緒になったことはない。
だから、これで本当にさようならだ。
「ねえ、――は夢ってある?」
「夢……」
電車から先に降りたA子が、私の名前を呼んだ。足は止まらず、人混みに流されるようにホームの出口へと向かっている。
夢。あるには、ある。
「……小説家、かな」
「小説家かぁ! ――は小学生の頃から、たくさん本読んでたもんね!」
じゃあ、と向けられる笑顔。降り注ぐ朝日なんかよりも、その時の彼女の方が遥かに眩しかった。
「お互い、夢を叶えられるように頑張ろうね!」
バイバイ。大きく手を振って、南口へと向かうA子。小柄な彼女の姿は、すぐに人混みにまぎれて見えなくなってしまった。
※
それ以来、A子には会っていない。連絡もとっていなかった。
……いや、本当は何度も連絡しようと思っていた。でも出来なかった。私は顔を上げると、そのまま床にひっくり返った。
実家に近いボロアパートで一人暮らし。地元企業に就職して、毎日同じことの繰り返し。裕福ではないが、それなりに安定した生活。夢なんてすっかり埃だらけだ。
それなのに、A子は夢を叶えた。私が暢気に暮らしていた時、彼女は遠い場所で夢に向かって努力していたのだ。
私が仕事で失敗して上司に叱られた時も、応募した新人賞で落選して不貞寝した時も、アラサーだからもう駄目だと全部諦めた時も。いつだってA子は努力を続けていたのだ。
彼女が夢を叶えられて嬉しい。
でも、悔しいという感情の方が大きい。
夢を叶えた彼女に、ではなく。夢をくだらない理由で夢を諦めてしまった自分が、だ。
「……まだ、A子に連絡出来ないな」
何の通知もないスマホを放り出して、代わりに棚の上からノートパソコンを持ってテーブルの上へ置く。
ティッシュでパソコンに積もった少なくない埃を拭ってから、電源に繋いで立ち上げる。かなり久しぶりだが、パソコンの動作はスムーズだ。
今からでも遅くない。幸いにも、プロ棋士とは違って私の夢に年齢制限などないのだから!
「せめて、A子に会っても恥ずかしくない程度には頑張らないとね!」
最初のコメントを投稿しよう!