最後の夜

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最後の夜

 ホテルの一室、窓際の椅子に座った僕は缶ビールのプルタブを引いた。プシューと良い音がする。ここへ持ってくるときにあまり振らないように気を付けたから、泡は吹きこぼれない。  冷たい液体を喉に流し込むイメージでゆっくりとぐびっとビールを一回煽ると、バスルームの方からドアの閉まる音がした。  着脱が楽なワンピースを着た早瀬(はやせ)さんが少し長いブラウンの髪を拭きながら登場した。そういえば、この間会ったときは髪がもう少し長かった気がすると僕は気づいた。 「ごめん、先に飲んでる」  そう言って僕は正面に腰を下ろす彼女に缶ビールを持つ手を上げた。 「ええ」  そう返した彼女は特に選ぶこともせず、袋の中から缶ビールを一方取り出すと、プシューとプルタブを引いた。これもまた泡は吹きこぼれない。  彼女は今更何の遠慮もなく、ぐびっと缶ビールを煽る。部屋の綺麗な照明に当たる白い首筋はなぜか健全に美しい。  僕は彼女がビールを喉に流し込むのを確認すると、「あのさ」と話を切り出した。 「今日のメールで『今日は最後の一回』って書いてあったけど、あれはどういう意味なの?」  突然訊いたのにも関わらず、彼女は実に冷静な態度だった。  彼女は口許から缶を離した。 「私ね、プロポーズされたの」  彼女はまるで昨日映画に行った、とでも言うように淡々とそう言った。 「そうなんだ。おめでとう」 「あら、意外ね。そんなこと言ってくれないと思ってた」 「どうして。別に僕は君を狙ってるわけじゃない」 「そうだよね」  早瀬さんはそう言ってもう一度口に缶を近づけた。 「君の結婚相手って、前から付き合ってる人?」 「そう。会社の同期。彼が今度の秋で花形の営業部に異動になるの」 「とても優秀な人なんだね」 「まあね。私と結婚するために頑張ったみたい」  しかし、その言葉とは裏腹に彼女は髪の毛を垂らし顔に影を作り、指で缶のラベルをなぞっている。 「素敵な人だね」  そう褒めてみても、彼女はうん、と機械的に頷くだけだった。  よく見ると、ラベルをなぞった指の爪には綺麗なネイルがしてあった。しかし、ラメやストーンなど派手なパーツはなく、銀の婚約指輪を際立たせるシンプルなものだった。僕はそんなネイルをした彼女は初めて見た。 「ねえ、村木(むらき)くん」  早瀬さんがそう顔を上げた。 「私ね、時々私が村木くんと付き合ったらどうなるんだろうって考えるの」  彼女はさっきよりも感情的にそう言った。 「どうなるの?」  僕は彼女の顔を覗き込むようにして訊いた。  すると、彼女は僕の顔を見て笑って、 「三か月記念も待たないで別れちゃう」 と、あっさり答えた。  しかし、これは全く意外な答えではなく、僕も妥当だ、と思った。  僕たちは実に奇妙な関係である。一か月に数回、ホテルの一室で抱き合い、最後は濡らした髪の毛を拭きながら酒を飲む。  出会ったときはちゃんと名のある関係だったのに。  綺麗に整えた爪を崩さないようにしながら両手で缶を持つ早瀬さんを見ながら、僕は半分セピア色になりつつある過去を思い出した。  彼女と出会ったのは、高校生のときだった。入学して同じクラスになったのである。しかし、よくある学園ドラマみたいに隣の席になったという上手い話はなかった。むしろ、席は教室の端と端だった。  ところが、スタンダードな道筋を辿った。僕は彼女が気になってしまったのである。当時の彼女はもちろん化粧も染髪もしていなかったが、透き通るような肌と艶のあるセミロングの黒髪がとても美しかった。しかし、その程度は女優やファッションモデルのようなものではなく、生まれ持った素朴なものだった。  それは決して不足している、というわけではない。手の届きそうな感覚こそが彼女の魅力の正体なのだから。  僕はそんな風にねちっこく分析もしながら彼女を目で追っていたわけだが、恋人になりたいとは思わなかった。それは今見えている以上の彼女の深部を知るのが怖かったからだ。価値観や思想が僕の中に構築された彼女と違うと実感させられて、僕のガラス玉のようなこの想いに傷がつくのが嫌だったのだ。  つまるところ、僕は目に見える彼女の幻想に恋をしていたのである。  まったく、僕は自分でもあきれるほど臆病でわがままな人だ。でも、僕はそんな美しい(、、、)彼女を人知れず想っている、という状況に精神が子供の僕は酔っていたのである。  当然こんな恋愛は進展するはずもなく、僕はそのまま卒業を迎えた。彼女とは連絡先も交換しないし、卒業アルバムにコメントも貰わなかった。ただ一方的に見ているだけの恋はやはりそのままあっさりと終わりを告げたのである。  ところが、そのあとになってこの恋が終わっていなかったという事実が発覚した。  それは卒業から二年後のことである。成人式のあとに行われた高校の同窓会で彼女と再会したのである。もちろん、そのときも高校時代と同じく僕は遠くから見ているだけだった。進展など望まず、手に持っているグラスには何の酒が入っているのだろう、と考えるだけで良かった。  しかし、僕は突如として彼女の飲んでいる酒を知ることになった。  それは僕が飲み物を取りにバーカウンターに行ったときのことだ。飲み物を作ってもらっている途中、背後から突然声をかけられた。 「村木くん」  振り返ると、そこには早瀬さんが立っていた。彼女の手にはさっきまであったグラスがなくなっていた。  早瀬さんは僕の横に立つと、カウンターにすでに並んでいる飲み物には目もくれず、レモンサワーを注文した。 「村木くんが飲んでるのを見て私も飲みたくなったの」  僕はその発言にとても驚いた。いつもこちらが一方的に見ていただけで、僕のことなど認知すらされていないと思っていたからだ。  少し待って二人分のレモンサワーが出来上がると、僕たちはその場で飲み始めた。今まで見ているだけだった人と隣同士で飲むというシチュエーションでは好きな酒の味も分からなかった。 「村木くん。高校時代、私のことをずっと見てたでしょ」  早瀬さんはぽつりとそう言った。 「え?」  そのとき僕は時効を迎えた事件を解明された犯人のような緊張感の走る気持ちになった。 「ごめんね、こんなこと。別に文句を言いたいわけじゃないの。ただ……」 「ただ……?」 「私も同じだ、って村木くんに言いたかっただけなの」  そのあと、ごく自然な流れで僕たちはホテルに向かったのである。 「私たちって最初から奇妙な関係だよね」  早瀬さんがそう言ったとき、僕たちは窓に体を向けていた。ビル群の連なる光の夜景にうっすらと僕たちの姿が並んで見える。 「たしかにそうだね。僕たちは好き同士なのにお互いの深い部分は何も知らない。というか、知りたくないと思ってる」 「私たちは自分が思い描いた理想の相手が好きなだけなんだから。言うなれば、幻想ね」 「幻想、か。目の前に本物がいるのに」 「むしろ、幻想は形のあるものに抱くものだよ。私ね、人は何か大切な気持ちを持ったとき、それを現実的なものにしたくないから幻想を抱くと思うの。その幻想は事実とは違う、自分の理想なの。傷一つない美しい完璧なものなの。だから、それを壊さないために幻想と違う現実の部分は知りたくないって思う」 「そう考えると、僕たちってわがままだね。好きなのに自分の美しい完璧な思い出を壊したくないからって、相手の立ち向かうには面倒な部分は見ないんだから。自分から好きになっておきながら、責任は持ちたくないんだ」 「いいんだよ。幸いなことに私たちはお互いにそう思ってるんだから」  すると、早瀬さんは体を正面に戻した。 「でも、『幻想』とか『深いことは知らない』とか言っても、傍から見たら立派な浮気だからね。彼と一緒に生活するようになったら、私は隠せる自信がない。だから、もうやめるの」  そう言うと、早瀬さんはカンっと軽い音を立てて空き缶をテーブルに置きながら立ち上がり、椅子の横に置いた鞄を取った。彼女の趣味とは少し外れているブランド物の鞄である。 「じゃあね、村木くん」  そう言う早瀬さんは急に清々とした笑顔を見せた。  僕は何かこのあとに言葉をつなげなければならないような気がして、「結婚式の招待状を送ってよ」と言った。 「うん。でも、ウエディングドレスを着た私が、村木くんの理想であり続けられるかは分からないよ」  彼女はそう念押しするように言った。  あれだけ幻想だと言っていたのに、僕は彼女の花嫁姿は見たい気がした。白いドレスを着た彼女を想像したら、まだ僕の理想の範疇だったのだ。 「まあいいか。私は結婚するんだもんね。じゃあね」  彼女はもう一度そう言った。しかし、そのトーンは普段と変わらなかった。 「うん、じゃあね」  僕もいつも通りにそう返すと、彼女は何の寂しさも残さずにごく普通にドアを開けて出ていった。  僕たちの最後の別れはそういう言葉で表すほど湿っぽいものではなく、実にあっさりしたものになった。  ヒュー、バタン。  早すぎず遅すぎずというスピードでドアが閉まった。  そのとき、僕は一つ息を吐いた。そして、胸ポケットを探る。  そこには一つプラチナの指環がある。さっきまで彼女のきれいな髪を照らしていたライトを反射してキラキラと光っている。  ごめん、早瀬さん。実は、僕も結婚するんだ。  どうしても言い出せなかったことを僕は心の中で彼女に詫びた。  早瀬さんが髪やネイルを整えたように、僕もヘアスタイルを変えたんだ。大学を卒業してから初めて髪を染めたんだ。でも、本当に少しの変化だったから気付かなかったかもしれない。  しかし、僕はそれで良かったと思った。彼女がいつもと何も変わらない別れを言ったから。それ以上でも以下でもない、幻想は幻想のままだったから。  きっと、僕たちはこのまま頭の中に理想の相手を飼いながら、各々で家族と過ごしていくのだろう。それで良かったんだ。一生、傷一つない幻想を忘れなければ、それで。  僕は自分の薬指に指環を嵌めた。うん、ぴったり。  僕はそのとき、さっき早瀬さんが清々とした顔をしていた理由を知った気がした。
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