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「鼻からスイカを出すくらいの痛みなんだってね」
出産予定日を10日後に控えた私の腹をなでながら、夫・弘人はつるりとこう言った。
はるか昔からお産の痛みを表すときに使われている有名なフレーズであることはもちろん知っていたが、そんなことがあってたまるか、とその言葉を聞くたびに思っていた。
大きくなった腹は確かにスイカの大きさと大差ないが、身体から排出しなければならないとなればその大きさからも目を背けたくなる。
簡単に言ってくれるな、と私は弘人の手をつねった。
「そんなわけないでしょう。だとしたら、人類の進化ってすごく欠陥だよ」
語気が荒くなって過剰に反論してしまったように思えたが、そう考えていたのは本当だった。
私の癇癪ぶりに目を丸くした弘人だったが、
「そうだよね。そんなに痛かったら今頃人間も卵から孵っているよ」
そう言って歯をみせて笑った。
その笑顔につられ、私も緩く笑みを浮かべたのだった。
しかし後に私は、人類の進化というものが実に不完全で粗削りなものであるのかを身をもって知るのである。
その時は突然やって来た。
一人家で育てているシソの葉に水をあげていると、腰に鈍痛が襲ってきた。
重くだるい痛みに陣痛の到来を確信した。
家を整えて身支度をすませた。病院へ連絡すると、自宅で様子を見てから入院になることが伝えられた。
あぁ、こんなものなのか。
これから数倍痛みが増したとしてもこれなら楽々と乗り切れそうだと思い、近い将来に会える我が子の顔を想像し顔が綻んだ。
やっぱり鼻からスイカ論は過剰な表現だったのだと、花吹雪を散らせながら全国の人々にお知らせしてまわりたい気分である。
しかし背後からそろりと迫ってきた鈍い痛みは、病院に着くころには形状しがたい激烈な痛みへと豹変するのであった。
痛いなんてものではなかった。腰の骨が砕け散るような感覚に、天地がひっくり返った。
いつの間にか駆けつけた弘人の手にすがりつき、ベッドの上でのたうち回った。
痛みと苦しみで朦朧となる意識の中で、ふとあることに気づいた。
こんなに痛いのは陣痛であって、赤子を出すときの痛みではないのだ。
私はまだ助走段階のうちに喘いでいたのだ。
恐ろしい事実に、頬に一筋の涙が流れた。もうだめだ。
「やめたいよ……」
要領を得ない私の言葉にはじめは戸惑う弘人であったが、すぐに意味するものを汲み取って握りしめていた手の力を強めた。
「やめるなんていわないで。お腹の中の子どもを僕に合わせることができるのは、利佳子にしかできないんだから」
迷い込んだ暗く深い茨の中で、道しるべを見つけたようだった。
私がやらなきゃ誰がやるのだ。こうなったら意地である。
数時間に及んで、私は襲い来る陣痛の波をやり過ごしたのだった。
苦しさで気が遠くなる中、腹の中の子も覚悟を決めたようで、いよいよ分娩台に上がることとなった。
終わりの見えないフルマラソンにゴールが近づいてきた。
助産師に強くいきむよう促される。言われるがまま、腹に強く力をこめる。
三度同じことを繰り返したとき下腹部からずるりと何かが押し出され、同時に周囲のざわめきが聞こえた。
ぱちりと目の前で何かが爆ぜたように感じた。
それまで分娩台に上がって天井を仰いでいたはずの私は、その時確かに、私と私にまつわる人々を空中から静かに見下ろしていた。
水の中を浮遊しているかのようにぼんやりした鼓膜を、細く、けれども瞭然とした赤子の声が震わせた。
気がつくとベッドにおろされ、弘人やその他のひとに甲斐甲斐しく世話を焼かれていた。
ふと、左脇に温かなものを感じた。
目を向けると、小さな赤子が薄く瞼をあげて空を見つめていた。
やがてその瞳は固く閉じられ、か細い泣き声とともに丸い涙が滲みだした。
何もかもが未知の、不思議だらけのこの世界の温度を肌で感じて怖がっている。
私の瞳からもとめどなく涙が流れた。
私も一緒に泣くから。私があなたの分まで泣くから。だからもう泣かないで。
私はその固く閉ざされた瞼にそっと指先を這わせて、なるべく多くの幸せがこの産まれたばかりの赤子に降り注ぎますようにと、強く願った。
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