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 ほとんど消えかけていたが、父のうなじと手の甲には契約奴隷労働者の管理バーコードが入れ墨されていた。  入れ墨を入れたのは22世紀の始め、南極のロス棚氷(たなごおり)の下のアイテール火山が噴火した二年後だ。  棚氷を突き破った噴火は南極西部の氷を溶かし続け、氷の重みから開放された付近の火山の噴火が後を追った。  海面水位が三十メートル上がり、気温の上昇が耐え難いものになると、土地を喪った難民が世界中から押し寄せ、不平等が見るに堪えないものなり、富の再分配の欲求が頂点に達したとき、多くのメトセラが殺され、それよりはるかに多くの人が死んだ。  当持属していた階層によって、革命とか再分配戦争とか再統合とか呼び方は変わるが、父はその時代を嘲るように暗黒の十年と呼んだ。 「混乱は投資のチャンスだ」父は言ったものだ。「必ず物資や食料が不足するからね。そんなとき物資や食料を売れば儲かるだろ?高い利子でカネを貸せるだろ?高値の武器も飛ぶように売れる。だから騒乱や戦争、革命には必ずスポンサーがいる」 「その人たちがたくさんのメトセラを殺したの?」 「貪欲なメトセラを殺すのは、より貪欲なメトセラだ」  誰かに殺されるに父はバーコードを入れ墨し、契約奴隷労働者の群れに身を隠した。  もちろん、父はバカではないから、巧妙に資産は隠していた。戦時に開発された潜水航行できる液化天然ガス(LNG)タンカーを買い、そのなかに資産を隠した。海運を監視するロイズ・オブ・ロンドンの衛星にまでハッキングをしかけてタンカーの所在を隠し、孤独なクジラのように世界中を回遊させた。  そのときタンカーを運行させていたのが、何ヴァージョンも昔のサイファだ。 「楽しかったぜぇ。マイクロ波発電衛星(SSPS)から電気を盗み、どこかの海軍の原潜の真下をくぐり抜け、ザトウクジラと歌うんだ。22世紀の海賊だ」  十年間、サイファと父が守った資産。それは砂だ。  海岸線がすさまじい勢いで侵食され、砂浜が喪われ始めたとき、父は海辺の砂を買い、改造したタンカーに運び込んだ。もちろん、父をまねて資産として砂を買った連中は大勢いたけど、彼らに見えないものを父は買った。  二枚貝、カニ、サンゴ、フジツボ、底生生物、繊毛虫、微生物、海藻、藍藻、フナムシまで、干潟の生態系を一式タンカーの中に築き上げた。  海面上昇が落ち着くころ、必ず必要になるとわかっていたのだ。  暗黒の十年が終わって、干潟の再生が事業として軌道に乗ると、父は「砂の王」と呼ばれるようなった。  砂を売る地味な商売に父は満足していた。 「汚いまねはしなくてすんだからね」  「砂の王」が「氷の王」と呼ばれるようになったのは、わたしが生まれる十年前だ。  「氷の王」あるいは「シジフォス成金」。  父は国連やいくつもの政府機関と契約を結び、石油採掘プラットフォーム(オイルリグ)のようなドーナツ状の|構造物を世界中の海に築いた。直径二百メートル。六枚の翼を持つドーナツの王様だ。  マイクロ波発電衛星(SSPS)から電気を共有されるテラ・ワット級の六基の巨大なレーザ発振器、サッカー場ぐらい広い六枚の放熱フィン、その中を循環する冷却流体。  ドーナツの中に閉じ込めたられた海水は、六方向からレーザを浴び、すさまじい光を放ちながら、エネルギーを奪われ、。凍りついた。零下百二十度。多原子分子レーザ冷却、シジフォス冷却効果だ。  位相の整った定常波(レーザ)には鮮明な山と谷がある。山で強制的に光を吸収させると、原子は光を放出し、エネルギーを喪い、減速して谷に落ちる。一度減速した原子は再び光を吸収しても、山には登れず、光を放ちながら、さらに深く谷に落ちる。山を登ろうとするたびに谷に落ち、原子はエネルギーを喪い続ける。エネルギーを喪うことは冷えることだ。こうして海水はエネルギーを奪われ、凍りつく。肉眼では直視できないほどの光を放ちながら。  夜の放射光は壮観だ。闇にそびえる直径二百メートルの光の柱が空を貫く。見上げても星は見えない。満月さえも。雲が低い夜は、五十キロ先でも街灯がいらないほど明るく空を灼く。  当然、排熱もすさまじい。原子炉並みだ。だから沸騰する冷却流体でタービンを回し、レーザ光やマイクロ波の形で、近隣の都市へ電気として供給した。  直径二百メートルの巨大な氷の柱は、周囲の海水温を下げ、気温を下げた。五百基のプラットフォームが稼働するようになると、海面水位は五メートル下がり、地球の平均気温は一・七度下がった。  そのころの父の姿はたくさんのニュース・アーカイブに収められている。  わたしのいちばんのお気に入りは、なにかの受勲を固辞する言い訳をたどたどしく語る姿だ。二百三十歳の父は若々しく、横に立ち苦労して笑いを押し殺す母も美しい。  父はこの事業を開始するまで百年をかけた。  進化論を書く前、チャールズ・ダーウィンが鳩を飼い始めたように、父は直径三十センチの実験装置から始めた。徐々に徐々に直径を広げ、レーザ冷却を学び、特許を買取り、研究者を雇い、ジェミニ・シリーズのAIを買うころ、ようやくドーナツの直径は十メートルを超えた。  ここまでで六十年。これで事業化などお笑い草だ。それでも続けた。  メトセラの時間感覚は、普通人とは決定的に違う。  それがわかるようになったのは、わたしが走りはじめてからだ。  毎日走るとわたしの距離感は変わった。わたしにとって一キロは距離ではなく五分後の未来だ。五分の曲を聞き終わればちょうど一キロ走りきる。そんな絶対的な感覚が身体に刻まれた。  わたしが距離を身体の時間感覚で計るように、父は進んだ距離で時間を計った。この仕事が終わる頃、今聞いている曲は終わる。父の中には百年続く音楽が流れていたのだ。  凍結事業そのものは利益を目指していなかった。レーザは冷却より加熱に使うほうがずっとたやすい。テラ・ワット・レーザを軍事転用したほうがよほど儲かる。  莫大な利益をもたらしたのはプラットフォームの設計と建造、多原子分子レーザ技術、シジフォス冷却関連の特許だ。多くの特許は軍事転用を禁じられていた。  出資を断り、共同経営の申し出を断り、事業の売却を断り、多くのメトセラに嫌われた。誰かと組めば利益を出さなければならない。下手をすれば軍事産業に堕落する。  妬むものは多く、妨害は多く、暗殺者も多かった。金融攻撃を躱し、妨害工作を阻み、スパイを叩き出したが、反撃はしなかった。  母が殺されると、父はメトセラ処置をやめた。日に日に老いた。普通人の十年分の老化が一年で押し寄せた。亡くなる前の一週間「シベリアの王女」を一日中見つめていた。  結局、母を殺した連中は、父まで殺したのだ。 「貪欲なメトセラを殺すのは、より貪欲なメトセラだ」  今、やっとあの言葉の意味がわかった。  反メトセラ。再分配。  母を殺した『真理宣告者たち(トゥルース・セイヤーズ)』。彼らの反メトセラの理想は「氷の王」を殺したいメトセラには都合がよかったにちがいない。  とんだお笑いだ。  なにも知らずに、わたしは両親を殺した連中の面前で、堂々とどんぶり一杯のラーメンを平らげてみせたのだ。  バカ面を曝しながら。
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