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1
眼を開けた途端に後悔した。
いちばん見たくないものが見えた。
「おかえりなさい、輝理香」
黒すぐりのような瞳、完璧な形の眉、五十を過ぎても水気たっぷりの肌。微笑を象る落ち着いた色の唇。
細く束ねた髪で編んだフレンチ・ツイストは、美しい鳥の骨格のように見えた。髪をまとめるコームは護身用で、スタンガンやら催涙スプレーやらが仕込まれている。
百舌口彩神音。
二十歳過ぎの娘にしか見えないのに、放つ威厳は二世紀生きた長命者たちさえ及ばない。
認めたくないが、わたしの母だ。
あくまで、戸籍の上では、だけど。
目覚めたのはわたしのベッドではなかった。頭の下に枕があった。わたしは寝相が悪い。枕なんか十年以上使ったことはない。
正面の壁にはキーファーの「シベリアの王女」。実物と同様に鉛とアクリルを使い、ナノマシンで、精密に仕上げられた描かれた幅五メートルの複製だ。鉛で描いた空。昏い未来へ続く線路、その圧倒的に陰鬱な遠近感。
病室に飾る絵ではない。死に際に見たい絵ではない。
五年前、この絵を外そうとするわたしを、父は止めた。
ここは父が、『氷の王』が逝った部屋だ。
銛先再生医療クリニック。父が出資した病院だ。
なぜ、わたしはここにいるのか。
なぜ、わたしの指先はぷよぷよと頼りないのか。
なぜ、右親指の付け根のキズが消えているのか。
なぜ、触れ合ったつま先の感触がいつもと違うのか。
なぜ、髪がいつもよりサラサラしているのか。
「気分はどう?」
どうしても訊きたいことがあるのに、どうしてもこの女には訊きたくない。
「最悪の目覚め」
わたしの口調をたしなめるように、フレンチ・ツイストの中でコームの発光素子が剣呑に閃いた。
継母が二度瞬きすればロックされ、次の瞬きでわたしは撃たれる。
「うーん、まだ、本調子じゃないわね」
「まだ、二時間も経っていませんから」
カンニングの言い訳する生徒より平板な声で銛先医師が言った。
「新しい身体に馴染むまで三日はかかります」
ありがとう、ドクター。望む答えを与えてくれて。
だから、わたしの指は頼りないのか。
だから、足の指の不自然に柔らかいのか。
この身体はクローン。
……わたしは死んだ?
見回してもカレンダーはなかった。
「今日は何日?」
継母も医師も応えなかった。
「2335年11月6日、水曜日」枕元のコンパクト・ミラーが応えた。「輝理香、11月3日日曜日23時20分、きみは死んだ」
継母が嫌な視線をコンパクトに送った。
サイファ、金で縁取られた黒瑪瑙の賢いコンパクトは、実の母射千花が残した唯一の形見だ。
なぜ、と訊くのを継母がさえぎった。
「家に帰りましょ、輝理香」
「いやよ!」
継母は、わたしから眼をそらすと、不自然なほど真っ直ぐ伸ばした人差し指で、自分の首を斬るような動作をした。
すると、鼻の奥でレモンが弾けた。
窓の向こうの空が明るく華やいだ。
沖合で輝く氷の柱を目指ざす鳥の群れ。その翼が描く弧は幸福の先触れのように見えた。
やられた。
これは噂に聞いた脳みそ錠にちがいない。
精神障害の治療に使う神経伝達物質のコントローラだ。
あの人差し指が斬ったのはわたしの首だ。
首切りジェスチャーは発動コマンドだ。
今、わたしの脳の中ではオキシトシンが煮えたぎっているにちがいない。
そうでなければ、カネ目当てで父と結婚した女をこれほど愛しく思えるはずがない。
「お家に帰りましょう」
肩に回された継母の腕は温かく、優しかった。
わたしは眼を合わせ微笑んだ。
「ええ、はやく帰りたいわ、お母さん」
言ったのはわたしのゾンビだ。
わたしじゃない。
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